鹿鳴館時代の貴族の館・ローマの古代遺跡の城館 Palazzo. Sciarra in Roma



イタリア・ローマの中心部、コロンナ広場周辺にはコロンナ宮殿はじめ古代から今に至るまで数多くの遺跡や建造物が残されています。また、中世にはコロンナ広場を中心して商業が発展したことで、広場を囲むようにして商業用アーケードも軒を連ねました。現在も当時の面影を色濃く残すアーケードが現存し風情ある佇まいを見せています。

写真はコロンナ広場近く、トレヴィの泉のすぐ南 Via Marco Minghetti とローマの目抜き通りコルソ大通り Via del corso の東に面して建つシアッラ宮 Palazzo.Sciarra です。 周辺は古代にはアグリッパ皇帝の館が連ねていた丘のひとつクィリナーレの丘の一角。そして、この城館の前身は古代のアグリッパ皇帝の姉妹のお屋敷だったところです。

《註:マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ Marcus Vipsanius Agrippa (紀元前63年~紀元前12年)は、古代ローマの軍人、政治家でローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの腹心として、また、後にはアウグストゥスの娘婿となり、その頭脳明晰さを買われてカエサルに見出され、軍略の弱いカエサルの参謀として活躍します。また、パンテオンやフランス南部に建つ水道ポン・デュ・ガールなど多数の建築物を建造した人でも知られます》

中世にはコロンナ広場の改築に伴って古代ローマ時代に建造されたここも中庭を残して、貴族の館が建立されました。その後、1885年に再び改修され、現在のような秀麗な館に生まれ変わりました。

古代から中世に引き継がれた情景を今に残す貴族の館として、19世紀末期には周辺から集まった上流社会の人々で日々宴が催され、華やかな時代を築いたシアッラ宮。 舞踏会を描いたのでしょうか、壁画には盛装した淑女が今にも踊りだしそうな、そんな華麗な姿が描かれていますが、なぜか人の世のはかなさを問う栄枯衰退を思わせる哀愁も漂い、訪れし者たちにこの世の侘びしさ訴えます。

1800年末期。その頃の東京の街もこのような衣装で夜な夜な舞踏会を楽しむ貴族たちであふれていたのでしょうか。 思い起こせば同時期の1883年7月7日、鹿鳴館が落成し、それを機に明治16年より明治23年までの7年余を鹿鳴館時代と呼んでいた日本がありました。

それは福澤諭吉たちが中心となった「文明開化」と呼ばれる運動と重なり、日本文化と政治体制を先進国を見習って刷新することを目的とした運動で、その運動に賛同した日本政府の高官や華族、欧米の外交団が東京の鹿鳴館を舞台にして宴を開き、舞踏会を催して、欧化主義を広めようとしていた時代でした。

明治16年(1883年)11月28日には内外から政治家、文人、貴族など1200名を招待して、鹿鳴館の落成の祝宴が行われた、と記録に残ります。

鹿鳴館は煉瓦造2階建てで1階には豪華なシャンデリアが下がる大食堂、談話室、書籍室などが設置され、2階には3室をつなげると100坪ほどの広間になるという広大な舞踏室、そして、 バーやビリヤードの設備も設けられていたそうですが、でも、その時代が終わったことで役目が終わったということなのでしょう、老朽化という問題もありましたが、無用の長物と判断され、1940年(昭和15年)に取壊されてしまいます。

でも、ここシアッラ宮には近代に近い中世のあの明治時代の頃のようなロマンにあふれた世界が未だ存在するのです。鹿鳴館時代に呈された夢の饗宴の世界の片鱗をここに見ることができるのです。

ローマの街角にはガイドブックには紹介されていない、このような素晴らしい中世の置き土産が人知れず点在しています。予期しない出会いに遭遇するローマ。この街を訪れたら、小路を散策して下さい。中世の夢の跡を見ることができますら、是非。

《註:文中の歴史や年代などは各街の観光局サイト、取材時に入手したその他の資料、ウィキペディアなど参考にさせて頂いています》

(トラベルライター、作家 市川 昭子)