『永遠の都ローマ』“カエサルゆかりの円柱” Colonna di Marco Aurelio



ローマの目抜き通りコルソ大通り沿いには、様々な時代の様々な遺跡や建造物が点在していますが、「マルクス・アウレリウスの記念柱」と名付けられたこの円柱もそのひとつで、道路沿いに広がるコロンナ広場中央に建っています。後方には首相官邸キージ宮が建つことで、時折、要人警護のために立ち入り禁制エリアになることが難ですが、周辺には中世からの歴史的な建造物が建ち、人々の訪れの多いポイントになっています。

ローマには記念柱と呼ばれるものは、この円柱とコルソ通りの東端に建つ「トラヤヌスの記念柱」の二つのみ。完成はマルクス・アウレリウスの記念柱が193年頃とされ、トラヤヌスの記念柱は113年という古代ローマ時代のものですが、その後、いずれも1587年から1588年に掛けて教皇シクストゥス5世により、トラヤヌスの記念柱頂上にあったトラヤヌスの記念柱のトラヤヌス帝が聖ペテロ像に換えられ、画像のマルクス・アウレリウスの記念柱のマルクス・アウレリウス帝が聖パウロ像に交換されています。つまり、2つの記念註のトップに飾られていた古代ローマの偉大な皇帝像をキリスト教の聖者に置き換えられたのです。

でも、この円柱本体の高さは29.60㍍、高さ10㍍の土台に載っていて、しかも、一番下部には3㍍の敷石が設置されていたというのです。ですから高さ43㍍にも及ぶこの高い頂上にどのような手段で重い聖人像を載せたのか。その詳細は未だに判りませんが、難工事を含めて、聖人像を創り飾ったのは、当時、建築家としてその名を馳せていたドメニコ・フォンターナです。

当時、フォンターナもベルニーニ同様にローマにはなくてはならない建築家であり、芸術家だったことは皆様も周知のこととですが、彼らは共に教皇お抱えの芸術家であったことで、難工事も命がけで行ったと思われます。

円柱はカエサルが残したローマ帝国を引き継いだ第13代ローマ皇帝マルクス・ウルピウス・ネルウァ・トラヤヌス・アウグストゥス(53年9月18日~117年8月9日)のために建立されたものですが、円柱のこの精緻なレリーフには、皮肉にもローマ帝国滅亡につながるゲルマン民族について描かれています。といってもマルクス・アウレリウス皇帝は、ゲルマン人との戦いで苦戦し、戦場で命を落とした最初の皇帝であったことで、この円柱は五賢帝のひとりだった皇帝への敬いを描き綴ったレリーフとも言われます。

《五賢帝とは、1世紀末から2世紀後期に在位したローマ帝国の5人の皇帝ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウスを指します》

ローマの歴史を紐解いてゆく上で必要なことは、五賢帝とカエサル、つまりシーザーが残したローマ帝国の始まりをしっかりと把握しておかなければいけないことに気がつきます。そして、ローマの重要な2つの円柱には、カエサルの思いが込められている。そのことにも気づかされます。

ローマに建つ2つの円柱の一つ“トラヤヌスの記念柱 Colonna Traiana”はローマ皇帝トラヤヌスのダキア戦争での勝利を記念して建てられたので、柱は元老院の依頼により建築家ダマスカスのアポロドーロスの指揮で建設されたと言われています。113年に完成したローマとダキアの間の戦争(101年~102年、105年~106年)を叙事詩的に描いたレリーフが円柱の表面に螺旋状に描かれ、その美しさからそのデザインは後の様々な記念柱で模倣されることになります。

柱の高さは約30メートル。台座を加えると全高約38メートルにもなり、カッラーラ産の一個40トンの重量がある巨大なドラム形の大理石(直径3.7メートル)を20個積み重ね、柱を螺旋状に23回まわっているレリーフは190メートルという長さを誇ります。かつては円柱の内部に設けられた185段の階段で、頂上の展望台まで登ることができたようです。また地上から約34メートルの高さに置かれている円柱の頂上に乗っている聖ペトロの像は、1587年12月4日シクストゥス5世の命により創られたものです。

《註:文中の歴史や年代などは各街の観光局サイト、取材時に入手した資料、そして、ウィキペディアなどを参考にさせて頂いています》

(トラベルライター、作家 市川 昭子)