2017/02/27

ミケランジェロの作品に未完が多い理由


通称、ミケランジェロは、ミケランジェロ・ブオナローティMichelangelo di Lodovico Buonarroti Simoniを本名とし、1475年3月6日にトスカーナの小さな村で誕生。そして、1564年2月18日にローマの仕事先で89歳という長寿を全うしています。

その間、イタリアルネサンス期の彫刻家として活躍し、同時期の画家としても、また、バロックに多大な影響を与えたマニエリスムという画期的な画法を編み出した画家の一人として、また、優れた建築家であり詩人でもあったミケランジェロでした。今で言うならマルチ人間。いずれの分野でも優れた才能を見せて、周囲の者たちや当時の法王などを驚かせたのです。天才と呼んだ方がふさわしいのかもしれません。

でも、彼は天才だからといって時の流れに身を任せてはいませんでした。建築家としては、先輩たちが遺した建築物を鑑賞し愛で、それらをそっくりお手本にはしないでそこから自分独自の世界を創り、芸術性の高いものを常に意識しながら、創造の世界に生きました。もちろん、建築だけではなく、画家としても彫刻家としても常に精進した努力家でした。ですから、彼が関わった建造物は、他の物件とは一味も二味も異なり、格調高い気品にあふれたものとなり、絵画も彫刻もミケランジェロならではの個性ある輝きを見せたことで、多くの人を魅了し、高い評価を得たのです。

また、天才は時に軌道を外れたことをやらかす吾人という定着したイメージがありますが、ミケランジェロという天才は何かをやらかすのではなく、気性の激しさゆえでしょう、仕事が思うように進まなかったり、無理に仕事をさせようとする権力者たちには、例え最高権力者の法王であっても、怒りの牙を向けたようでした。

写真はローマの観光ポイントコロッセオ近くに建つサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会内に保存されているミケランジェロの作品「モーゼ」です。この作品を完成させるまでには様々な問題が起き、制作過程に於いての逸話がいくつかあるようですが、1506年、古巣のフィレンツェにいたミケランジェロは、ローマ教皇ユリウス2世にローマへ呼び戻され、教皇の墓廟を制作するよう命ぜられたのがこの「モーゼ」を創るきっかけでした。ちなみに法皇は現在も、生前に自分の墓所を造ることを慣例としています。

ユリウス2世はミケランジェロに墓石を置くだけの単なる墓ではなく、彫刻を多数並べた巨大な構築物を造るという壮大な計画を提示しました。その計画を聞いたミケランジェロは、規模のあまりの大きさに疑問を持ちながらも、仕方なく着手するのですが。でも、その2年後の1508年、ユリウス2世から今度は墓廟の制作より先にバチカン宮殿にあるシスティーナ礼拝堂の天井画を描くよう命じられるのです。それもご存じのように気の遠くなるような壮大な計画でした。

ミケランジェロは画家である前に彫刻家として生きたかったのでしょう、法王に「自分は彫刻家であり、画家ではない」とその依頼を断ったのです。そうなのです。ミケランジェロは好んで絵を描いていたのではなかったのです。

そして、彫刻家としての自分をより高めたいと友人に漏らしていたミケランジェロは、当時、勉学にはもっとも適していた30代半ばでした。好きな道で精進したかったのだと思います。

でも、その多才さから先輩格であるレオナルド・ダ・ヴィンチ同様にルネサンス期の典型的な「万能人」と呼ばれた彼。マルチ芸術家だったばかりに、画家としての仕事も多く、結局、その礼拝堂の仕事を断ることもできなくて、4年の歳月を掛けて1512年、創世記をテーマにした『天地創造』の大フレスコ画を完成させたのです。そして、作品は皮肉にも画家として、誰よりも優れた腕を持っていることを世間に認めさせる大傑作となったのです。

その後、今度は建築家としての腕を買われ、カンピドリオ広場やサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会など多数の建設を依頼されたことで、巨大な構想で計画されたユリウス2世の墓廟は、途中で何度も何度も中断され遅々として前に進むことなかったのです。結局、40年間も墓廟の制作に関わり合ったにも関わらず、資金難にも陥ったことで、完成を見ることなく、未完で終わったのでした。

私は常々ミケランジェロの仕事に「未完作品」が多いと申していますが、なぜ、彼の作品には未完作品が多いのか。

私見ですが天才芸術家ゆえにあまりにも注文が多かったからだろうと思います。重複する仕事は二つや三つではなかったのです。それも最高権力者だった法王からの注文が大多数でしたから、断ることは不可能に近かく、常に注文を重複しながらこなしていたことで、時間に追われ、寝食を割いて働いても、約束の期日までにはできなかったことも多かったと思われます。完成を近くにすると焦りからでしょうか、次の依頼作品に手を掛けたのでしょう、気がついてみれば多くの作品があと一歩というところで止まっていたのです。売れっ子の哀しき運命だったのかもしれません。

写真の作品はユリウス2世からの注文で造り始めた墓廟の一部ですが、彼独特のマニエリスムの特徴がよく出ている作品として知られます。

《註:これら歴史や年代などは各街の観光局サイトやウィキペディア、取材時に入手したその他の資料を参考にさせて頂いています》

(トラベルライター、作家 市川 昭子)
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