《ここメイフェアはヨーロッパの経済を活性化した産業革命の発祥の地》
バッキンガム宮殿の北側一帯に広がるメイフェア地区は、西はハイド・パーク、北はオックスフォード・ストリート、南をリージェント・ストリートに囲まれた繁華街の一角に広がります。ここは14世紀から始まった貴族御用達の街として、英国の栄光の時代には常に主役だった場所。その頃に創られた“クラシカルで気品ある街並み”は今も現存していることで、ロンドンっ子にとってはここの散策はステータスにもなっているのです。
メイフェアが最初にスポットが当たるようになったのは、世界に向けて東方貿易で栄華の時を築き、世界中の街を大英帝国の傘下に置いた誇り高き植民地時代でした。英国がこれほどに輝かしい時代を築いたのは産業革命によるもので、その卓抜した経済力と軍事力を背景にした時代は、パクス・ブリタニカまで続きます。また、植民地時代は金銭も含め、精神面でも大きな余裕が生まれ、この国にとって何度目かの改革の時代になったのです。
《註:パクス・ブリタニカ(Pax Britannica)とは、英国帝国の最盛期である19世紀半ばごろから20世紀初頭までの期間を表した言葉で、なかでも「世界の工場」と呼ばれた1850年頃から1870年頃までの産業革命の時代を指すことが多い》
英国だけではなくヨーロッパに大きな影響を与えた産業改革は、17世紀中頃、このメイフェア辺りを中心にして始まった都市化のための開発に端を発しました。それは内需拡大という結果を生み出し、周辺の開発に勢いがつくと、その波は幾重にもうねり始め、18世紀以降、このメイフェア辺りはロンドン随一の高級住宅街と化し、凛とした姿を見せ始めたのです。
それが拡大し、街に余裕が生まれると人々は未来へ向けた夢を育むようになります。そして、その夢は大きく育ち産業革命へと発展します。その後、夢が野望にもなり、大英帝国の最盛期である19世紀半ば頃から20世紀初頭まで「パクス・ブリタニカ(英国の平和)」と称された時代に引き継がれていったのです。
もちろん、発祥地であるここメイフェアは、更なる発展を遂げ、また、それ以前の17世紀中頃から18世紀は、メイフェア地区のほとんどがウェストミンスター公爵とグロヴナー·ファミリーの所有だったことで彼らが企画した 「ファッショナブルで高級感あふれた住宅街」という街造りが成功。瀟洒な街並みができたとも伝えられます。そして、当然のごとく、格調高い景観を自慢とした中世末期のメイフェアには、裕福な貴族たちが集まりはじめ、住居地としても貴族御用達エリアとなってゆきました。
その後、19世紀初頭、高級ショップやレストランなどが林立し始めると、ユダヤ系ドイツ人の一族であり、18世紀からヨーロッパの各地で銀行を設立していたロスチャイルド·ファミリーがメイフェアに目をつけます。
投資しても損のない条件が揃っていたのでしょう。常に先見の明のある彼らでしたから、19世紀に彼らはメイフェアの多くを購入するのです。
メイフェアは現代にあってもそのリッチな佇まいに変わりはなく、ロンドンではヘッジファンドが集中している地区として知られ、賃貸料は高額であるものの(その賃料はロンドンのみならず世界で最も高い水準で知られます)老舗高級品店舗や老舗ホテルなどが軒を連ねます。
その一例がアメリカ大使館であり、グロヴナー・スクエア、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ、グロブナー・ハウス・ホテル、クラリッジス、そして、ロンドンで最も豪華なショッピングポイントで知られるバーリントンハウス(1819年創業)などが建ち、名実ともに「ロンドンの一等地」として知られます。
また、グロヴナー・スクエアの先にはサウス・オードリー・ストリートSouth Audley Streetが伸びていますが、通り沿いには王室御用達(ロイヤル・ワラント)の証であるロイヤル・アームス(紋章)を掲げる店が多く、その威容さと気品ある佇まいは特筆すべきものがあります。この通りでは観光客の姿を見ることはあまりありません。
メイフェアの名声と威信は、英国の誇りでもあることと同時に、ここには18世紀から続く“華麗なる今”が現存しているエリアでもあります。古き良き時代の大英帝国の今がここに今なお広がり、シックにクラシカルに、そして、優雅な英国を演出し続けているのです。
《註:文中の歴史や年代などは各街の観光局サイト、取材時に入手したその他の資料、ウィキペディアなど参考にさせて頂いています》
(トラベルライター、作家 市川 昭子)