“パンがなければお菓子を食べればいいじゃない”の発言の流布の真意



マリー・アントワネットは、フランス革命前に民衆が貧しさゆえに充分に食事をとることができなくなったとき、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と発言したと伝えられますが、原文はフランス語で“Qu'ils mangent de la brioche”。「あなたたちはブリオッシュを食べたら」です。

でも、当時はブリオッシュはパンの扱いではなくお菓子でした。ですから“お菓子を食べればいいじゃない”ということで間違いはないのですが、当時、パンもないのに贅沢なお菓子があろうはずもなく、例えあっても、庶民の手には届かない代物です。

飢えに耐えている民衆に、その手に届かないものを食べたらいかが、と発したとすれば、相手は腹が立ちます。当然、相手を侮辱した言葉として、発言者が非難されても仕方のないことでしたが。

でも、この発言は彼女の亡き後、約30年後にアントワネット自身の言葉ではないことをルソーが1766年に出版した自作「告白」の第6巻で、明かしたのです。それは文中で

“家臣の「農民にはパンがありません」との発言に対して、さる大公夫人が「それならブリオッシュを食べればよい」と答えた”

ワインを飲むためにパンを探したが見つけられないルソーが、家臣からそう報告されたことを思い出したと告白したからでした。また、ルイ16世の叔母であるヴィクトワール王女の発言ではないのかという説もありますが、その根拠はなく、結局、ルソーの告白が最有力とされ、世間に公表されたのです。

写真はパリの街角に建つパン屋さん“ジェラール・ミロ”です。ここのブリオッシュの味は逸品です♪♪

『芸術を愛したマリー・アントワネット』

マリー・アントワネットはルイ16世と結婚したことで、嫁ぎ先のヴェルサイユ宮殿での華麗な宮廷生活を取りざたされもしますが、夫ルイ16世は、14歳でオーストリアからフランスに嫁いできたマリーを労わるためもあったのでしょう、宮廷生活を快適にするための改革を王妃に任せます。

温和で静かな生活を好むルイ16世とは異なり、やんちゃで娯楽を好んだ王妃は王の許可の元、週2~3回芝居の上演を行ったり、大舞踏会を開いたりして貴族たちと共に娯楽を楽しんだようです。もちろん、母国ではモーツアルトを招待して御前演奏を開く母親テレジアでしたから、そのの影響で、音楽も愛したマリー・アントワネットは自分のハープの演奏会を開くこともありました。

また王妃は芸術愛好者でしたから、家具職人で御用商人のリーズネルや、画家のエリザベート・ヴィジェ・ルブランを庇護しましたが、なかでも注目したいのはルブランへの擁護でした。

《王妃マリーと同い年の女流画家のエリザベート・ヴィジェ・ルブランとの関係》

エリザベート・ヴィジェ・ルブランは1776年に画家で画商であるジャン・バティスト・ピエール・ルブランと結婚した後、当時の貴族の多くを肖像画に描いて画家として大きく飛躍。その頃でした。彼女の評判を耳にしたマリー・アントワネットはルブランを自分の肖像画を描かせるためにヴェルサイユ宮殿に招きます。

ルブランに会ったマリー王妃は、同い年ということもありルブランを気に入り、また意気投合し、その場でルブランに自分や子供たち、王族や家族の肖像画を描くよう依頼します。その後、二人は画家と王妃という関係を超えた友人関係を構築し、睦まじい交流をしたと伝えられます。

ちなみに、ルブランはロココから新古典主義の時代に活躍したフランスの美貌の女流画家で、王妃マリー・アントワネットの擁護により18世紀最も成功した女性芸術家で知られます。そして、彼女は約30点もの王妃の肖像画を描いています。

そして、マリー・アントワネットを誹謗中傷する多くの逸話は、近年になって虚偽の話しが多いとされ、汚名を挽回していますが、それだけ事実無根の話が出回ったことは、彼女に対する国民の憎悪の念が激しかったのかもしれません。でも、見方を変えれば、その美貌、ファッション、教養など備わった女性だったことで同姓から羨まれ、やっかみででっち上げられ巷に流されたということも考えられるのです。いわゆる今で言う“有名税”だったのかもしれません。

羨望の的であったとはいえ、フランス国民の嫌われ者だったアントワネットは、処刑後、遺体は哀れにも集団墓地となっていたマドレーヌ墓地に葬られましたが、後に王政復古となり、新しく国王となったルイ18世は、既に私有地となっていたマドレーヌ墓地を地権者から購入し、兄嫁の遺体の捜索を命じました。

そして、ごく一部でしたが遺骸を見つけ、1815年1月21日、歴代のフランス国王が眠るサン・ドニ大聖堂に夫のルイ16世と共に改葬されたのです。38年の短い生涯を他意によって終わらなければならなかったマリー・アントワネット。ルイ16世に嫁がなければ、と悔まれもするのですが、これが定めだったのですね。

《註:文中の歴史や年代などは各街の観光局サイト、取材時に入手したその他の資料、ウィキペディアなど参考にさせて頂いています》

(トラベルライター、作家 市川 昭子)