午後の鈍い光の中に浮かぶアントワネットの独房・コンシェルジュリー



セーヌ川に浮かぶサン・ルイ島と橋で繋がったこのシテ島は、パリ発祥の地。

パリの長い歴史を見続けてきたという自負があるのか、朝夕に麗しく光り輝き、その情景に誰もが感動し、かの有名なノートルダム寺院すらも敬意を表するのです。また、輝きは季節を問わず不変ですし、常に柔らかな新雪のような光の中で、神々しく凛とした佇まいを見せるのです。

でも、よそゆきの姿なのでしょうか、それは僅か数分の間だけ…。午後になるとこのように寂しげな景観に装いを変え、セーヌ川河畔に居ずまいを正すのです。そして、シテ島を離れ、ノートル・ダム橋を前にして架かるアルコル橋Pont d'Arcoleに立つと、はるか遠い昔からたゆたうセーヌの水の流れを前にして建つコンシェルジュリーの寂しげな佇まいに出会うのです。

その佇まいを見た旅人の誰もが思います。

“過去に数えきれないほどの哀しみを味わい、その非情な歴史を背負った城館ゆえに、こうして悲しみに満ちた佇まいを見せるのだ…”3つの円錐形の塔を抱く画像のこの城館は、フランス革命終焉の頃、マリー・アントワネットはじめ多数の囚人が収監された場所、コンシェルジュリーLa conciergerieです。

城館は14世紀にフィリップ王の命により建造された宮殿でしたが、14世紀後半に牢獄として使われ始め、18世紀のフランス革命の際には、マリー・アントワネットはじめダントンなど多くの王族、貴族などの旧体制派が収容されました。

当時、その牢獄に収監された人のいずれも死刑になったことで、城館は“死の牢獄”あるいは“ギロチン控えの間”と呼ばれ、誰も寄り付かない恐怖の館と化しました。そして、その歴史の中で、もっとも話題を呼んだのは、1793年1月、夫ルイ16世のギロチンによる処刑に続き、8月2日には妻であるマリー・アントワネットが、この牢獄に移されたことでした。

ヴェルサイユ宮殿に住んでいたルイ16世一家は、一旦はパリのテュイルリー宮殿に身柄を移されますが、8月10日、パリ市民と義勇兵がテュイルリー宮殿を襲撃したことで、マリー・アントワネット、ルイ16世、マリー・テレーズ、ルイ・シャルル、エリザベート王女の国王一家はタンプル塔に幽閉されます。

タンプル塔では幽閉生活とはいえ王家族の団らんの時があったとされ、30人のお針子を雇うなど待遇は決して悪くなかったのです。でも、それは一家の最後となる幸せな時間だったのです。

1793年1月、革命裁判が始まったその20日後の1月21日午前10時22分、夫であるルイ16世はシャルル・アンリ・サンソンの執行により革命広場(現コンコルド広場)に設けられたギロチンで斬首刑に処されます。

そして、半年後、8月2日にマリー・アントワネットはコンシェルジュリー牢獄に収監され、夫同様に裁判が行われます。でも、結果は初めから決まっていたも同然でしたから、裁判は形だけ。タンプル塔から移った2ヶ月後の10月15日に決し、翌10月16日、革命広場においてギロチン処刑台に立たされ、処されたのです。僅か38年という短い生涯でした。

処刑の前日、アントワネットはルイ16世の妹エリザベト宛てにこう書き残しました。

「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるのなら恥ずべきものではない」

そして、遺書を書き終えた彼女は、朝食についての希望を部屋係から聞かれると「何もいりません。全て終わりました」と述べたと言われます。それは38歳の若さにも関わらず、自分という世界を持っていた女性ゆえの言葉でした。

このように自分を見失うことのなかった彼女は、裁判でも、また、断頭台に立つその時までも自分の罪を認めず、最期まで凛として自分のプライドを守りました。そして、自分の生き様に自信すらあったアントワネットでしたから、自分の死後(30年以上を経過するのですが)、「パンがなければ…」の一連の発言をはじめとする、自分に対する悪評の殆どが中傷やデマだということが判明し、名誉が回復することを知っていたのかもしれません。

また、身長154cm、ウエスト58cm、バスト109cmという素晴らしい肢体だけではなく、可憐さも残るその美しさで人々を魅了した彼女でした。なかでも美しいものに対しての優れた審美眼に誰もが脱帽し、尊敬されもしたのです。

そのひとつが、社交界では常に人目を引くデザインのドレスをまとったことでした。ナイスボディだったこともありますが、美的センスに優れていたことで、そのファッションは素晴らしく、男性の目を引き、女性たちの憧れの的となったのです。ですから、年間170着のドレスを新調させたというのも、同性としては理解できますし、納得できます。

そして、このような贅沢な生活をしていたことを、最後は庶民を欺く行為として非難されましたが、でも、晩年には“不幸になって初めて、人は本当の自分が何者であるかを知るものです”という今までにない殊勝な言葉を発し、それまでの私生活を嘆くアントワネットの姿…。

フランス革命の勃発の原因を作ったとされるアントワネットの節操のない私生活振りは、ともかく、後年、悪評のその多くが中傷とデマによるものであったことが解明されたことは、天国にいる当人はもちろん、彼女のファンの多くが喜んだと思います。

《註:文中の歴史や年代などは各街の観光局サイト、取材時に入手したその他の資料、ウィキペディアなど参考にさせて頂いています》

(トラベルライター、作家 市川 昭子)