ルノワールの晩年とマニエリスムの世界



下記は若き頃、ルノワールが画塾で言った言葉です。有名なエピソードとして今も語り継がれてもいます。

画塾で制作中のルノワールに師のグレールが言いました。「君は自分の楽しみのために絵を描いているようだね」

ルノワールは即座に答えたそうです。

「楽しくなかったら絵なんか描きませんよ」

ルノワールは初期にはアングル、ドラクロワなどの影響を受けモネたちが提唱する印象主義のグループに加わりますが、イタリアに旅をした後、後年は古典絵画の研究をしながら、印象だけで絵を描くのではなく、形状を重視した形を明確に表現する。というルノワール独自の手法を考え出します。そうして印象派の画家たちとは一線を画すようになります。

その後イタリアへの旅でのラファエロの作品との出会いでデッサンの重要さを感じたルノワールは、少しずつですが作品には今までより被写体に対して忠実なデッサンを描くようになります。

1883年、42歳の時に完成した「都会のダンス」と対となる「田舎のダンス」を発表しますが、その段階からルノワールの画風がやはり少しずつですが、変化を見せてきます。

それは線とデッサンにこだわった構図を用い、それまでの暖色系とは正反対の寒色の色調を集にした色付けに見られました。もちろん、写実的な表現も加わった説得力のあるものとなり、観る者を圧倒します。

ちなみに「都会のダンス」で女性のモデルを務めた女性は、ユトリロの母親シュザンヌ・ヴァラドンですね。彼女はロートレックの愛人でしたが、ロートレックの後押しで、後に画家となって活躍します。

また、「田舎のダンス」のモデルを務めたのはアリーヌ・シャリゴ。彼女と愛し合っていたルノワールは、1890年、結婚し二人の息子に恵まれます。

《余談:ルノワールの二人の子供の長男のピエールは俳優として活躍し、次男のジャンはあのジャン・リュック・ゴダールやトリュフォーなどが活躍し、一世を風靡したフランスのヌーヴェル・ヴァーグ、また、イタリアのロベルト・ロッセリーニやルキノ・ヴィスコンティらのネオレアリズモ、他にロバート・アルトマンやダニエル・シュミットなど、多くの映画作家に影響を与えた有名な映画監督で知られます。父親の芸術の血は、しっかり息子たちに流れていました》

ルノワールは晩年の1900年以降はニース近くの小さな村に居を移します。そこでも体力的な衰えとリューマチ性疾患に悩まされてはいたものの、車椅子で意欲的に制作を続けますが、既に画家として前線から遠のいていたこともあって、不自由になった手に筆をくくりつけて、デッサンを楽しんでいたようです。

それでもくつろいで描いたにも関わらず作品には積み重ねられた画家という歴史の重みと、歳を重ねて得た本物の優雅さも加わり、その素晴らしい出来栄えに画商が飛びついたと伝えられます。

画像の作品は1918年、78歳で長寿を全うする前年の作品「水浴の女たち」です。

老齢になって愛着を覚えていった南国の大自然の中にルノワールは画布を託しました。そこで本来の温かな色調で描いた二体の裸婦。そうなのです、この作品は200年以上も前の時代にラファエロやミケランジェロに多大なる影響を受けたバロックの巨匠、ルーベンスの“水浴の女たち”と同じテーマで描いています。

彼が印象派を出たあの時点からずっとこだわり続けた“古典”。それがルーベンスの“水浴の女たち”であり、最期にルノワールがこの作品で初めて古典への回帰をしようと制作をしたと思われます。

ルーベンスが描いた作品で、ルーベンスに影響を受けたラファエロの生きる世界に、自分の世界を重ね、マニエリスムの手法も加味し、それを自分の新たな新境地として披露した作品ではないのでしょうか。この作品はルノワールの集大成であり、遺言として完成させた。作品はラファエロ以前のミケランジェロのマニエリスムにも相似しています。

彼は印象派画法を拒絶こそしませんでしたが、イタリアへの旅から帰ってから大きく変化した手法。それは独自性の強いものでしたから、受け入れてくれる人は数少なかったかもしれません。でもこの作品を完成させて生涯を終えたルノワール。最期まで自分を信じていた証しでもあります。

《註:文中の歴史や年代などは各街の観光局サイト、取材時に入手した資料、そして、ウィキペディアなどを参考にさせて頂いています》

(トラベルライター、作家 市川 昭子)