日本人を愛したフランシスコ・ザビエル Sant'Ignazio di Loyola in Rome



《ザビエルが日本人について本国に伝えた言葉「今まで出会った異教徒の中でもっとも優れた国民であり、なかでも名誉心、貧困を恥としない優れた人間性を持つ」》

イタリア・ローマの下町に建つ聖イニャツィオ・ディ・ロヨラ教会(別名サン・ティニャーツィオ聖堂)は、イエズス会の創設者イグナチオ・デ・ロヨラに捧げるために1626年から1650年に掛けて建立したバロック様式の教会ですが、イエズス会士のために1582年に建設されたコレッジョ・ロマーノの敷地内に組み込ませての設計となっていたことで、建設当初から狭い堂内をいかに広く見せるかをアンドレア・ポッツォらにより腐心され、その結果、だまし絵(イリュージョン)のテクニックを駆使して創意工夫されて完成した教会でした。当然ながらそのイリュージョンの素晴らしさに創立時には多くの話題と注目を集めました。トリック・アートの世界が広がる堂内のお披露目には誰もが目を見張り、見学者の列がどこまでも連なっていたと伝えられます。もちろん、堂内にはポッツォの作品の他、見応えある多くの作品が展示されていましたから、完成して数ヶ月間は、ローマ市民だけではなく、他都市からの多くの人々でにぎわいを見せました。

画像は教会が誇るもう一つの作品フィリッポ・ヴァッレFilippo Della Valle (1698-1768)作の大理石祭壇「受胎告知」です。作者のフィリッポ·デッラ·ヴァッレ(1698-1768)は、日本ではあまり取り沙汰されない作家ですが、イタリアの後期バロックを受け継ぎながら、初期のネオクラシックの彫刻家で知られ、サルヴィのトレビの泉はじめラテラノのサンジョバンニ大聖堂や1754年にはサンピエトロ大聖堂の“アビラのサンタテレサの記念碑”など、ローマ市内には彼の多くの傑作が残されています。彼はドメニキーノやジャン・ロレンツォ・ベルニーニが通ったアカデミー・サン・ルーカという名門を卒業していますが、作風は彼らとは異なり優しい彫りを特徴とし、慈しみの心を表現しながらロマンにも満ちた美しい世界を表現するという、素晴らしい腕を持ちます。もちろん、彼の作品は観る者の心を捉えて離しませんでした。

左右に施された大理石の螺旋状の柱をご覧ください。大理石とは思えない柔和な動きが在ります。また、中央にはヴァッレならではの精緻な彫刻を特徴とするスタッコ装飾が見られ、受胎告知という題材には見合わないほどの華麗さとその見事さは観る者を魅了するだけではなく、感動すら招きます。

健康美と寓話性に富んだ作品を手掛けたら彼の右に出る者はいないとされる彫刻家フィリッポ・ヴァッレ。それだけに悠久の時を経た今も感動を与える作品となって私たちを楽しませてくれるのです。

イエズス会は、1534年8月15日、イグナチオ・デ・ロヨラとパリ大学の学友だった6名の同志、スペイン出身のフランシスコ・ザビエル、アルフォンソ・サルメロン、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャなどがパリ郊外のモンマルトルの丘のサン・ドニ聖堂(現在のサクレ・クール聖堂のあたりにあったベネディクト女子修道院の一部)に集まり、そこで生涯を神にささげる誓いを立て、この日をイエズス会の創立日とした後、ザビエルを先頭にして世界各地で宣教活動を始めました。

日本でもお馴染みのフランシスコ・ザビエルは、宣教師として世界各地で布教をしていましたが、マラッカで出会った日本人ヤジローの話に耳を傾けたザビエルは日本への興味が深くなり、1549年に来日。東洋の使徒として二年間滞在して宣教活動をするのですが、それは困難を極め、想像以上に辛く苦しい日々が続きました。そんなとき、同じ東洋人として生きる日本人のために、中国の宣教が不可欠だと考えたザビエルは、意を決して難しいとされる中国本土への入国を志し、トライします。

覚悟はしていたものの、入国は何度も何度も拒否され、それでも、あきらめずに中国本土に近い中国・上川(サンチェン)島で入国の機会をうかがっていたのですが。心身共に疲れ果てて倒れ、栄養失調でもあったことで1552年12月3日、46歳で生涯を終えるのです。

ザビエルは当時の日本人を本部にこう伝えています。

「今まで出会った異教徒の中でもっとも優れた国民であり、なかでも名誉心、貧困を恥としない優れた人間性を持つ」

ザビエルは日本人をこんなに素敵に評価していてくれたのです。ザビエルは日本人のためだけに布教活動をしていたわけではありませんが、でも、上記のように私たち祖先を敬い、信じるに値すると思ったことで、最期、中国領で命を落とすという、大きな犠牲を払ってまでも日本人を貧困から救いたいと思っていたのです。

国内には彼の多くの足跡が残されています。いつの日か日本でザビエルの思いを追いたいと思います。

《註:文中の歴史や年代などは各街の観光局サイト、取材時に入手した資料、そして、ウィキペディアなどを参考にさせて頂いています》

(トラベルライター、作家 市川 昭子)