モネの執念・睡蓮



《見えなくなった光りであっても心の中に見えている“睡蓮の池の光り”を捉えて最期まで描き続けたモネ》

1840年にパリで生まれ、5歳の時にパリ郊外の町ル・アーブルに家族と共に居を移したモネは、そこで活躍する印象派画家ブータンに認められ、19歳の時に本格的に絵画を学ぶためにパリの自由画塾アカデミー・シュイスに入ります。

そこでは同塾に在籍していたカミーユ・ピサロと出会い、その後、異なる画塾ではその後共に歩む画家ルノワールやアルフレッド・シスレーたちとも交流を持つようになり、彼らから多くの刺激を受けます。

でも、モネを印象派画家として目覚めさせたのは、ル・アーブルでブータンという師と共に過ごした毎日があったからでした。ブータンはそれまでの室内での作業を否定し、部屋から外に出なさいと告げ、自然の中で光りを捉えながら絵筆を握るという、モネがそれまで考えたこともなかった作業を勧めます。

ですから、モネは画布を通して自然の中の光りを見たときは、目からうろこでした。それまでのすべてが無となり外光の美しさはモネの心を捉え、時の経過で変化する“光”に魅了されてゆきます。そして、いつしかその光りの変化にこだわり、モネは時に変化する光を追い求めてゆきます。それは思いもかけませんでしたがモネの生涯に掛けての“光へのこだわり”となりました。

ですから、その後の人生は自然界の光と大気との関係性を探りながら、科学的な要素を持ったその関係性をどう表現したらいいのか。考えに考えながら、そして、悩み苦しみながら日々を過ごすことになります。

20代半ばから86歳までの長い時間、水面に反射する光の推移を描き、試行錯誤しながらも自分のこだわりを画布に載せ描き続けます。そして、こだわりのそれらを作品として遺してゆきました。

それが「ルーアン大聖堂」、「サンラザール駅」そして、この「睡蓮」などモネの『連作』シリーズとして完成させ、今なお大きな反響を呼んでいるのです。

1879年最初の妻カミーユと死別します。

その哀しみがモネの心を大きく動かしたのでしょうか、1883年にはパリを離れ、借家でしたが、ジヴェルニーの自宅兼アトリエに移ります。そして、1890年に借家を買い取り、それを機にジヴェルニーの自宅周辺で見つけたモチーフの時の経過を描くようになってゆきました。

刻一刻と変わる光りを捉え、何かに取り憑かれたかのように終日同じモチーフを描き続け、次から次へと連作を完成させてゆきました。

1892年、二度目の妻となるアリス・オシュデと再婚すると、翌年、自宅の庭に日本の太鼓橋を架け、睡蓮を植え付けて「睡蓮の池」を造りました。

そして、その後の数年間は睡蓮と周辺に植えた柳の樹木などの成長を楽しんでいましたが、1898年から画像の「睡蓮シリーズ」を描き始めます。毎日、午前の光りの中で、昼の時間の中で、そして、午後の斜陽の中でキャンバスに向かう日々が続きます。それは春夏秋冬、折々の季節に同じ条件で描き続けました。“定点写生”として描き続けたのです。

描き始めた当初は、このように太鼓橋も絵の中に取り入れていました。池を取り巻く風景も描いていましたが、それは少しずつ描かれなくなり、終には全く描かれなくなります。そして、無情にも水面だけが残り、画面全体を覆うようになってゆきます。また、最晩年には大作『睡蓮』の大壁画を手がけるのですが…。

モネの晩年の20年間は、この日本式の「睡蓮の池」が彼の絵画における主要な主題となっていたことは、誰もが知るところですが、でも、彼は最期は睡蓮が浮かぶ池だけを描き続けていました。それも苦しみながら描き続けたのです。そして、当時友人にこんな手紙を送っています。

“前文略…これらの水と光りの反映の光景が、一種執念みたいになってしまったのです。ですから私がこの執念の光景から感じているものを、何とか絵に表してみたいのです。もう私の手には負えなくなっていますが、でも、何とか描いてみたいのです…”

視力の衰えを感じていた最晩年でしたから、もう光りを捉えられなくなっていたのです。ですから、執念だけで描いていたのです。見えなくなった光りであっても心の中に見えている“睡蓮の池の光り”を捉えて、最後の最期まで描き続けたモネがここにいました。そして、視力の衰えを感じていた最晩年でしたが、彼は睡蓮の池を“水と光りの反映の光景”として捉え、8枚の大壁画「睡蓮」(作品は現在パリのオランジュリー美術館の地階に展示されています)を完成させます。

そうなのです。モネは20代にブータンと出会ったあの頃から追い続けた“光の変化”をここで帰結したのです。そして、抽象絵画の先駆者として生きた巨匠は、大壁画を完成した4年後に86年の生涯をこの池の傍らに建つアトリエで終えました。

日本人を愛し、日本の文化芸能を好んだ印象派画家クロード・モネは、命を閉じるその日まで日本の文化の世界に埋もれて、そして、長年のテーマを帰結し安堵して、生涯を終えるのです。

20代からの変化する光りの追及を決してあきらめなかったモネだから、大好きな睡蓮の池の傍らで幸せに生涯を終えた。そう思います。素敵です…。

《註:文中の歴史や年代などは各街の観光局サイト、取材時に入手した資料、そして、ウィキペディアなどを参考にさせて頂いています》

(トラベルライター、作家 市川 昭子)

※筆者は「Gadgetwear」のコラムニストです。