2016/03/22

日本を愛したクロード・モネ


美術ファンでなくても誰もが知る印象派の巨匠、クロード・モネ。彼は1840年、パリのラフィット街に生まれましたが、5歳の時、一家でノルマンディー地方のセーヌ河口の街ル・アーヴルに移住します。

かつてから景勝地で知られるル・アーヴルでした。朝早くから海から上る明るい陽光に照らし出された街は、水を得た魚のように輝きの中で生き生きとし始めます。それはモネだけではなくその場に遭遇した多くの人々を感激させるほど、見事なまでに美しい夜明けを演じるのです。

モネはその時を待つようにして朝早くから戸外に出、早朝の街の輝く“今”をスケッチブックの上に描きます。そうです。パリから小さな港町ル・アーヴルに移ったその頃から、モネ特有の“時間の経過”を記述し描き始めたのです。

スケッチブックに描かれた絵を見た両親は、息子の画才に驚き、17歳になった時、地元のダヴィッドの弟子だった画家の元で本格的に絵を学ぶことを勧めました。もちろん、それはモネにとって願ったり叶ったりの提案でした。

それを機に、彼の絵の才能は大きく育ち、その素晴らしさは街中の評判になりました。そして、噂は画家として既に成功していた風景画家ウジェーヌ・ブーダンの耳に入り、モネと出会うことになります。

後に、ブーダンの描く世界に影響された画家たちの多くが、印象派として活躍したことは知るところですが、モネに注目したブータンのその頃は、既にバルビゾン派に属するトロワイヨンやミレーらの土地の画家との交流を持ち、ル・アーヴルに居ながらもパリにもよく出かけていた有名画家の一人でしたから、初対面のモネはさすが緊張の度合いも強かったのではないのでしょうか。

ブーダンは、室内で描くことよりもキャンバスを戸外に持ち出し、明るい陽光の下で制作することを推奨する画家でした。ですからモネとその作品を見て気に入った彼は、ことある度に自然の光と色彩の変化を大切にすることを教え、未来の大画家を育てようと常にモネの傍らで見守りました。後のモネが「光の画家」と称されるのも、ブータンの教えあってのものだったのです。

ブータンと共にル・アーヴルで制作活動を始めたモネは1865年、彼が20歳になったとき、周囲の勧めでサロンに2枚の風景画を出展します。2作品共好評を博し、それが事実上のモネのパリ進出の機会となります。そして、翌年にはあの戸外でくつろぐ人物を描いた長大作「草上の昼食」を描き始めるのです。

1872年に完成した『印象-日の出』が一世を風靡し、それ以来、モネの作風に賛同する画家たちを「印象派」と呼称されるようになることはあまりにも有名ですね。

画像の作品は「印象・日の出」を完成してから約30年後、モネの56歳の時のもので『ロンドンの国会議事堂、霧を貫く陽光』です。

作品はモネが26歳に時に描いた「印象・日の出」に相似した色遣いであり、色調、そして、構図まで似ています。

それは「印象・日の出」描いてから30年を経過した時点でも、いかにモネが“光の変化”にこだわっているのかを立証するものであり、また、1日の光の変化にいかに魅了されたままであったかを見せる作品でもあったのです。そして、30年という時の経過の中で、それまでにない斬新な光の屈折を見つけていたことを明かす重要な作品であったことに、観衆は気がついたのです。

それはこの作品は「印象・日の出」と見間違うほどに光り(陽光)を意識していますが、もうひとつ、光りの中の“静寂”を描いているからでした。

午前中の痛々しげな光りを捉え、川面には移りゆく季節の儚さを描き、川の流れに“日の光りの静けさ”を委ねている。

そんな印象を観る者に与えたからでした。そして、この頃から彼の作品は“光りの中の静けさ”を訴える作品へと変化をし始めます。

これはモネが1899年から1901年にかけて、数回に分けてロンドンに滞在(各滞在は2~3ヶ月程度)し、ロンドンとテムズ川の風景を連作的に制作した作品の中の一点で、霧に包まれるテムズ川河畔に建つ冬の国会議事堂と陽光を描いたものです。

1898年に病に臥したロンドンへ留学していた息子ミシェルを訪ねて滞在したことがきっかけとなり、その後、3年間ロンドンでの制作活動を行ったモネ。その間、「国会議事堂」を画題とした作品を約20点、ウォータールー橋など「橋」をテーマにした作品を80点近くも描きました。ただ、何れも未完成のままロンドンを去っています。

そして、その数年後、終の棲家として選んだジヴェルニーのアトリエで100点の内の37点を完成させ、1904年に画商デュラン・リュエルの画廊で「テムズ川の眺めの連作」として発表しました。

この作品はその37点の内の一点です。“光りの中の静けさ”を訴えた最初の頃の作品です。

モネはこの作品を完成させた5年後に、白内障を患います。手術で一時的に視力は回復しますが、少しずつ衰える体力を気遣い、晩年には友人にこんな手紙を書き送っています。

“仕事に没頭しています。でも、光りと影と陽光の反映が、執念のようにして私を襲ってきますから…。ですから懸命に描いていますが、でも、もう私のような老人には手に余るものとなっています…”

それまで借家だったジヴェルニーの自宅兼アトリエを1890年には買い取り、ジヴェルニーの日本庭園を愛でながら、1926年12月6日に生涯を終えます。

また、86歳という長い生涯を生きたモネは、ジヴェルニーの自宅への来客を断る事が多く、変人扱いもされていましたが、ジャポニズムに傾倒したばかりではなく、日本人の来客だけは歓迎し、会ったと伝えられます。

そうなのです。モネはジヴェルニーの自宅に来訪した日本人家族を歓待し、喜んでくれたのです。

世界にその名を轟かせた印象派の巨匠が、日本人だけを喜んでジュヴェルニーの自宅に招き入れてくれたのです。うれしいですね。

《註:文中の歴史や年代などは各街の観光局サイト、取材時に入手した資料、そして、ウィキペディアなどを参考にさせて頂いています》

(トラベルライター、作家 市川 昭子)

※筆者は「Gadgetwear」のコラムニストです。
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