2016/03/07

明治時代にパリに凱旋した二人の芸者


ジャポニズムとは19世紀中頃の万国博覧会への出品(浮世絵、琳派、工芸品など)が注目され、西洋の作家たちに大きな影響を与えた日本美術。その後ジャポニズムとしてパリを発祥の地にして世界中の先進国に広まった文化芸術革命です。そして、その革命の真っただ中、ジャポニズムを背負った2人の芸者がパリを訪れていたことを皆さまご存知ですか?

日本が19世紀末、日露戦争を終焉させた後、モダニズムを掲げて、また、文明開化をうたった明治時代に入った頃のパリは、既に近代化を目指して、1855年・1867年・1878年・1889年・1900年・1937年と19世紀の半ばから20世紀半ばまで、立て続けに万国博覧会を開催していました。それらは国内の景気を活気づけ、内需拡大にひたすら努力をしました。

その結果、経済の活性化を成し遂げ、今まで貴族だけしか手に入れることができなかった“富”を庶民が個々に得ることができるようになります。そして、彼らはそれまでの貴族社会から庶民主導の時代へと自らの手で導いてゆきます。

それは“良き時代”ベル・エポック(Belle Epoque)と呼ばれ、ヨーロッパ中でパリが一番繁栄した華やかな時代として今も語り継がれています。その面影の多くが今もパリの街に点在し、今なお古き良き時代の街並みを見ることもできます。

それを代表するのがエッフェル塔でありオルセー美術館です。前者は1889年パリ万博に間に合わせて建設されたものです。後者は1900年のパリ万国博覧会開催に合わせて建設工事を急いだオルレアン鉄道のオルセー駅だったところです。

当時は鉄道駅舎兼ホテルとして完成したもので、今までにないその斬新なデザインに誰もが目を見張ったと伝えられます。そして、その駅舎は今再生され、オルセー美術館として活用されているのです。

鉄の文化で産業革命を起こし、経済面で大飛躍した英国から、好景気の時代はフランスへと移ったその当時、オルセー駅の完成を待っていたかのように、明治33年、川上音二郎・貞奴一座は鉄道を利用し、アメリカから英国ロンドンを経て、パリにやってきます。そして、5回目の万国博覧会(1900年)に参加し、「遠藤武者」「芸者と武士」を公演します。

貞奴一座はアメリカでの公演が好評だったことで、万国博会場に設けられたアメリカのロイ・フラー劇場での上演でしたが、会場にはロダンはじめ、多くの文化人たちが招待され、華やかな中での初演が終わり、その後の公演ももちろん拍手喝さい。大好評の内に幕を閉じたのです。

そして、その後、フランス大統領エミール・ルーベが官邸のエリゼ宮で開いた園遊会に招かれたりもして、貞奴はジャポニズムを導いた国の主役として活躍し、「マダム貞奴」という日本人初の女優としてもその名をパリ中に広めたのでした。

もう一人の女優“花子”は1900年に単身ヨーロッパに渡り、女優として、また、踊り子として活躍。そして、1902年、34歳になった花子は一座を旗揚げし、その2年後の1906年、マルセイユの植民地博覧会で公演を打ちました。

演目はジャポニズムの潮流に乗るようにした日本的なものでした。でもそれが功を奏し、花子の演じる芸者の妖艶さに観る者の誰もが圧倒されたのです。

そして、その中に既にその名をヨーロッパ中に轟かせていた彫刻家の巨匠ロダンがいたのです。

ロダンは花子が桜の木の下で斬られて悶死するその苦渋の表情に衝撃を受けたと言われますが、それは花子が醸し出す妖艶さと着物姿の素晴らしさに魅了されたのでしょう、その場でモデルの以来を申し出たのです。

花子もうれしさあまり即答。モデルを承諾したのでした。正に相思相愛でした。

それ以来、公演の合間を縫ってはロダンの元に通い、また、女としてばかりではなく、人間としても円熟期にあった花子でしたから、その完成された美しさにますます磨きがかかり、フランス国内ばかりはなく、ヨーロッパでの女優としての地位を動かぬものとしていたのです。

また、ロダンもそんな花子に魅了されていたのでしょう、花子を前にすると制作意欲が燃え、58体の彫刻を残しているのです。

彼女は森鴎外(1862年~1922年)の短編小説「花子」のモデルであることも知られていますね。

明治の初期、こうして貞奴と花子の二人は、時を同じくしてジャポニズムのパリに日本文化を背負って、女優として、また、踊り子として挑みました。

無謀とも言える挑みでしたが、結果は二人の持つ才能と着物という民族衣装の素晴らしさも加味され、彼女たちの狙い以上の結果を出すという、素晴らしいものでした。

それは舞台鑑賞後、画家ピカソが貞奴の舞台姿を描いたのもその証でしょう。巨匠ロダンが花子の面像68体をも彫刻するということも彼女がいかに魅力ある女性だったのかを知ることができます。

社交界に生きたマダム貞奴の心意気と踊り子花子がロダンだけではなく、ヨーロッパの人々を魅了した妖艶さががジャポニズムの人気になお一層の力を添えたのではと思います。

川上貞奴(1871年~1946年)と花子(1868年~1945年)のお二人は、第二次世界大戦後、故郷日本で77歳と75歳という長寿を全うして生涯を終えました。

《註:文中の歴史や年代などは各街の観光局サイト、取材時に入手した資料、そして、ウィキペディアなどを参考にさせて頂いています》

(トラベルライター、作家 市川 昭子)

※筆者は「Gadgetwear」のコラムニストです。
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