“ルネッサンス”という言葉の生みの親ブルーニの墓碑



レオナルド·ブルーニ(1370年~1444年3月9日)は、イタリアの人文主義者であり、政治家、そして、最初の近代的な歴史家と呼ばれた知識人でした。

また、イタリア・ルネッサンスは、14世紀から16世紀にかけて北イタリア各地で主に文化や科学の世界で展開された革新運動のことを指しますが、その元にあるのが「再生=ルネッサンス」で、それまでの古代ローマ文化やギリシャ文化を模範とした再生を試みたのでした。

そして、それを最初に「再生=ルネッサンス(イタリア語ではIl rinascimento)」と定義したのは、フィレンツェ共和国の書記官長であったレオナルド・ブルーニでした。彼の著書「回顧録」の中で「『再生』の光を見た」と表現されたことによるのです。

サンタ・クローチェ聖堂にあるこの画像の「ブルーニの墓所」を制作したのは、初期ルネッサンスの彫刻家・建築家で知られるベルナルド・ロッセリーノ(Bernard Rossellino、1409年~1464年)です。本名はベルナルド・ディ・マッテオ・ディ・ドメニコ・ガンバレッリ。

彼はフィレンツェ市北東部にあるセッティニャーノという小さな村で生まれましたが、弟のアントーニオ・ロッセリーノ共に高名な彫刻家として立身し、このサンタ・クローチェ聖堂のレオナルド・ブルーニの墓碑を1450年に完成させました。

彼もまた、ブルーニ同様に単なる彫刻家と終わったのではなく、この作品でその名を一躍有名にしたのです。それは今までの墓所の造り方とは異なり、壮麗さと威厳を称えた墓碑であったことで、その後、ニコラウス5世の目にとまり、教皇庁の建築顧問を依頼されるという著名な芸術家として成功してゆきます。

そして、彼の最高傑作といわれるこの壮麗な墓碑は“ルネッサンス期の墓碑の原型”として、後に多くの彫刻家たちのお手本となっていったのです。

法王庁の建築顧問となってからのベルナルドは、数々の建築改修を手掛けており、とりわけ彼の利発さを買っていたレオン・バッティスタ・アルベルティLeon Battista Alberti が法王庁の書記官となってからは、ベルナルドのための企画を多く立ててくれたことで、彼は水を得た魚のように、それまで以上に実務担当で活躍をします。

その中で特筆したいのが、ピオ2世がお気に入りだったピエンツァPienza の町づくりに参加し、その躍進ぶりです。

というのもドゥオーモやピッコローミニ宮を手掛けたのですが、それは彫刻家だけではなく建築家としても素晴らしい手腕を見せ、完成した暁には喝采を浴び、建築界にもその名を馳せたのです。

また、彼が生まれ育ったまるで絵画のような美しい情景を自慢とする小さな町セッティニャーノ(Settignano)は、デジデーリオ・ダ・セッティニャーノはじめガンベリーニ兄弟、ロッセッリーノ兄弟など、ルネッサンス時代、多くの著名な彫刻家の生地となっていることに注視したいと思います。また、若いミケランジェロが、一時、制作活動をした町でも知られることにも注目したいと思います(その小屋は現在は「ミケランジェロ荘」と呼ばれて保存されています) 。

そうなのです。この小さな町は中世初期から芸術家を育てる環境と風土が培われていたから、多くの芸術家を誕生させ、内外から多数の彫刻家を呼び寄せたのです。

それは画家に必要な風土というだけではなく、風光明媚であり、単に美しい町というだけではなく、当時、大理石採石場が多数存在し、彫刻家が必要とした資材が在ったからでした。

また、高台に広がる町ですから、その後もフィレンツェのグエルフィの避暑地であったり、ブドウ畑とオリーブの森、イタリア風の庭園の独特の風景が気に入ったボッカッチョの別荘が建立されたりし、街は著名人たちの避暑地としても知られるようになりました。

多くの著名人を魅了するセッティニャーノという小さな町。

そこから輩出された彫刻家のひとりベルナルド・ロッセリーノは、後にルネッサンスの申し子とまで言われ、彫刻家としても建築家としてもその名を欲しいままにしました。また、ミケランジェロが一時とはいえこの町に住みついたのです

セッティニャーノは中世初期から芸術家たちのオアシスであり、人間の繋がりや縁を招く不思議な空気が漂う、ミステリアスな町だったのです。

もちろん、今もそれは変わりません。

ミケランジェロが愛したブドウ畑とオリーブの森、そして、イタリア風の庭園という独特の風景がルネッサンスの風と共に、広がっています。

《註:これら歴史や年代などは各街の観光局サイトやウィキペディア、取材時に入手したその他の資料を参考にさせて頂いています》

(トラベルライター、作家 市川 昭子)

※筆者は「Gadgetwear」のコラムニストです。