ダンテの生涯をかけた愛 Dante Alighieri



画像はフィレンツェの歴史的建造物サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂から、南東800mのところに位置するサンタ・クローチェ聖堂(Basilica di Santa Croce)に飾られているステファーノ・リッチの1829年の作品「ダンテの記念碑」です。

かの有名な「神曲」の著者ダンテ・アリギエーリの生年月日は1265年~1321年9月14日とされていますが、正確な誕生日は明らかではなく、彼の作品「神曲」の中の天国篇から手掛かりを見つけ、1265年~1321年とされました。

彼が生まれたとされる1265年頃は日本はまだ鎌倉時代。北条時宗が執権となった頃で、その3年前は日蓮が法華経を広めようと行脚の旅に出たばかりの頃です。

その時代に生まれ、幼い頃から神童ぶりを見せ、20代末期あたりから詩文を書き始めたダンテ。驚きです。

また、少年時代のダンテについても生年月日同様に確たる記録は乏しく、どのような家庭に生まれ育ち、どのように少年期、青年期を過ごしたのかは定かではありません。

ですから彼が書きとめた諸々の書物とダンテの伝記とみなされる彼の詩文集「新生」や「神曲」の内容から、彼の足跡を探るしかなく、今現在はそのような形で察することの可能な限りを、ダンテの歩いた過程とされています。

勉学が好きだったのでしょう、成人する前には既にラテン語文法や修辞学などを学んでいたと推測され、また、青年期に入って間もなく、紀元前30年頃に活躍した古代ローマの詩人ウェルギリウスや紀元45年頃からその名を知られたコルドバ生まれのローマ帝国の詩人マルクス・アンナエウス・ルカヌスなどの作品を愛読し、当時活躍していたフィレンツェの詩人たちからもラテン文学の教養を身につけ、様々な文学的表現方法を学んだりします。

ダンテが最初に文集としてまとめたのが、28歳の頃の作品「新生」(La Vita Nuova)です。作品は詩31篇とそれにまつわる出来事をまとめたもので、ダンテにとって最初の重要な作品とされるのですが、内容は彼の感受性の高さを知らしめた感動的なものになっています。

「新生」はダンテが幼い頃に出会った美少女ベアトリーチェとのことを書いた私小説的なものでした。

出会った瞬間に一目ぼれをしたベアトリーチェでしたが、その時、ダンテはまだ9歳といいます。でも、それ以来、忘れることはなく思い焦がれていたのですが、一度会っただけでその後、別れ別れになったままでした。

でも、神様は何を思ったのか、9年後、共に18歳になったダンテとベアトリーチェをこのフィレンツェの聖トリニタ橋のたもとで再会させたのです。

二人にとっては偶然の再会でした。でも、お互い気付きながら、ダンテの片思いということもあって言葉を交わすことなく、すれ違っただけの小さな小さな再会でした。

もちろん、ダンテは胸が張り裂けんばかりに喜び、それまで比較的静かで落ち着いていた恋心が再燃。以来、熱病に冒されたようにベアトリーチェに再び恋焦がれてゆくのでした。

でも、ダンテはこの恋はなぜか叶わぬ恋と知っていました。ですから、その気持ちは打ち明けることもなく、自分だけのものとして1285年頃に兼ねてから約束していた許婚のジェンマ・ドナーティと結婚します。ベアトリーチェも同じ頃、ある銀行家に嫁ぐのですが、1290年、24歳という若さで病死してしまいます。

その悲報を受けたダンテの哀しみは深く、永遠の恋人とまで思っていたベアトリーチェへの思いは、激しい思慕へと変わってゆきました。

そして、愛する人を突如失ったことの拭うことのできない痛みと大きな哀しみの中で、そのはけ口も見つけらないまま、かねてベアトリーチェについて綴ってきた詩文をまとめ始めます。毎日、狂ったようにして書き綴り、書き続けました。そして、愛する人を失った悲しみをうたった詩を添えて1293年、「新生」を完成させたのです。

ベアトリーチェの悲報を知った当時は、狂乱状態にまで陥ったダンテでした。その後も二度と立ち上がれないほど、辛く苦しい思いの中で時を過ごし、死を選ぼうとすらしていました。

そんな絶望の淵にいたとき、ダンテは生涯をかけてベアトリーチェを詩の中に永遠の存在として賛美していくことを自分に誓ったのです。それは「新生」だけではなく、その後の自分の作品の中のすべてに、愛する人を描き神聖化すると誓ったのです。

そして、ダンテはベアトリーチェが逝去してから約10年を経過した1307年頃から、ベアトリーチェを天国に坐して主人公ダンテを助ける永遠の淑女として描くために、地獄篇、煉獄篇、天国篇の3部作という構成で「神曲」の執筆に取り掛かかります。

その頃の北イタリアの各都市はグェルフィ党(教皇派)とギベリーニ党(皇帝派)に分かれて、反目しあっていました。フィレンツェはグェルフィ党だったことで、ダンテは教皇庁へ特使として派遣され、フィレンツェ市外にいましたが、不幸にも街はギベリーニ党の天下となり、グェルフィ党勢力に対する弾圧が始まりました。

幹部が追放され、ダンテも欠席裁判で教皇への叛逆や公金横領の罪に問われ、市外追放と罰金の刑を宣告されます。ダンテはこの判決を不服として出頭命令に応じず、ギベリーニ党から永久追放の宣告を受け、この日を境にダンテの長年にわたる流浪の生活が始まったのです。

以来、ダンテは二度と故郷フィレンツェに足を踏み入れることはなく、1318年頃からラヴェンナの領主の元にかくまわれ、子供を呼び寄せて暮らすようになっていましたが、「神曲」を完成させた直後、マラリアがもとでしたが、「神曲」を書きあげるために精根を使い果たしたかのように、1321年9月14日の夜半、56歳の生涯を閉じます。壮絶な生涯でしたが、家族に見守られて迎えた幸せな最期でした。

ダンテの亡骸はラヴェンナの河畔に建つサン・フランチェスコ教会の敷地内に建立された小さな霊廟に祀られています。

作品はフィレンツェへの批判や政治への提言、そして、「三位一体」の神学までもが取り上げられ、中身の濃いものとなって1321年、完成させていますが、地獄篇、煉獄篇、天国篇の3部から成り、全14,233行の韻文による長編叙事詩であり、聖なる数「3」を基調とした極めて均整のとれた構成でイタリア文学最大の古典とされ、世界文学史にもその重要性を説いています。また、当時の作品としては珍しく、ラテン語ではなくトスカーナ方言で書かれていることを特徴としています。

なお、ダンテの家系は現在に至るも存続し、ワイン業「セレーゴ・アリギエーリ」を営んでいると伝えられます。

《註:これら歴史や年代、人となりは各街の観光局のサイトやウィキペディア、取材時に入手したその他の資料を参考にさせて頂いています》

(トラベルライター、作家 市川 昭子)

※筆者は「Gadgetwear」のコラムニストです。