2015/11/16

ジョン・F・ケネディ元大統領 John Fitzgerald Kennedy


画像はワシントンDC郊外にある国立アーリントン墓地に眠るジョン・F・ケネディ大元統領の墓所です。墓前には常に多くの人が訪れ、涙を流しながら墓石に手を添え、いつまでも立ち去りません。

亡くなって既に半世紀が経とうとしているのに、今なお愛され続けるジョン・F・ケネディ氏…。私にとっても忘れえぬ人の一人です。

ジョン・F・ケネディ大統領John Fitzgerald Kennedy(1917年5月29日~1963年11月22日)は、アメリカ合衆国の下院議員を経て上院議員となり、1961年に第35代アメリカ合衆国大統領に就任します。

就任時は43歳という、アメリカでもっとも若い大統領として世界の注目を集めました。

また、当時彼は20世紀生まれの最初の大統領であり、カトリック教徒として現在まで唯一の大統領です。アイルランド系アメリカ人としても、ピューリツァー賞を受賞した唯一の大統領でした。

幼い頃から病弱だったケネディ氏は小学生の頃から療養のための休学が多く、ハーバード大学に入るまでは、 いくつもの学校を転校せざるを得なかったために成績は良くなく、順位は下から数えた方が早いという学生でした。

ですから、彼の成績ではハーバード大学入学は不可能に近かったのですが、街の有力者だった父の尽力で入学できたは良いものの、在学中の成績は落第ぎりぎりだったと伝えられます。

でも、大学在学中に父親が在英国アメリカ合衆国大使に任命されたことで、休暇になれば英国を訪れたり、ドイツやオーストリアなどを巡って見聞を広めます。その頃は不穏な空気が漂う第二次大戦前のヨーロッパでした。ですから政治的な絡みを目の辺りにし、国家が何たるものか深く考えるようになります。他国間との交渉がいかに重要なものであるか、自国の主義主張が他国にどのように影響を与えるのか。

それら多くのことを学び、卒業論文にミュンヘン会談を扱った『ミュンヘンの宥和』を書き上げます。

父親は論文を読むと、その意を得た理論の素晴らしさに驚き、自らの御用記者であったニューヨーク・タイムズのコラムニストに読ませ感想を聞き出します。もちろん、誰もが絶賛という結果でした。

彼の卒業論文は1940年、『英国は何故眠ったか』というタイトルで出版されます。英国とアメリカで8万部を売りました。

そして、1940年6月、優秀な成績でハーバード大学を卒業します。

第二次大戦では海軍に入隊し、1943年8月2日に日本海軍と衝突し海に投げ出されますが、一命を取り留め、その後、体調不良となり1944年、本国へ戻ります。

第二次世界大戦後の1946年、ジェームズ・M・カーレイがボストン市長になるために民主党下院議員を辞職すると、ケネディはその議席の補欠選挙に立候補します。

アメリカの選挙期間は長期に渡ることで、膨大な選挙資金が必要となりますが、父の支援により資金に困ることはなく、ケネディ氏は大差で共和党候補を破り、29歳の若さで下院議員(任期1953年1月3日~1960年12月22日)となり、下院3期目の1952年には上院議員選挙に出馬し、勝利します(任期1947年1月3日~1953年1月3日)。

議員としての日々は順調に過ぎながらも、様々な経験をし、アメリカ合衆国の上院議員として9年を経過した1961年1月20日に大統領選に勝利し、第35代大統領に就任します。

若くてイケメンで、育ちがよく教養にあふれたアメリカ大統領ジョン・F・ケネディ。

英知にあふれた美しい妻ジャクリーン夫人を伴い、大統領として宣誓をするその姿は、世界中の人々に今までにない若々しいアメリカという国を思わせ、期待させました。

でも、可愛いお子様にも恵まれ、誰もが憧れる若い大統領が誕生したのも束の間でした。

1963年11月22日、大統領に就任して2年目の秋でした。テキサス州ダラスでオープンカーでのパレード中に狙撃され、暗殺されるのです…。

奇しくもその日は初めて日本とアメリカ間のテレビ中継実験(衛星通信)の日でした。その生々しい映像は日本にもリアルタイムで報じられたのです。

アメリカの人々はもちろん、日本の人々も狙撃される瞬間の映像をその日の内に見ることになったのです。

衝撃的でした。それは誰もが信じられないほど、悲し過ぎる映像でした。

ショックで声が出ないまま、誰もがテレビの前で涙を流しました。画面が見えないほど大粒の涙で泣きました。

《余談:私がここに足を運んだ時、墓前の前に黒人の女性が座り、墓石に手を触れて涙を流していました。私を見ると泣き顔に笑顔を作り、静かに去ってゆきました。振り返ると彼女の後には悲しみの香りが残され、私に涙を誘いました》

下記は大統領就任時の演説の有名なフレーズです。

「あなたの国があなたのために何ができるかを問うのではなく、あなたがあなたの国のために何ができるのかを問うてほしい」

この丘のすぐ下には数年後に同じく暗殺されたジョンの弟ロバートの眠るお墓があります。

《註:文中の歴史や年代などは各街の観光局サイト、ウィキペディア、取材時に入手したその他の資料を参考にさせて頂いています》

(トラベルライター、作家 市川 昭子)

※筆者は「Gadgetwear」のコラムニストです。
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