今も現役の跳ね橋タワー・ブリッジと東京の勝鬨橋



ロンドンの地下鉄タワーヒル駅を出るとコンクリートの塊のように不気味に建つロンドン塔が左手に見えてきますが、その先のテムズ川に架かる華麗な橋は皆さまご存知のタワー・ブリッジです。

両岸にそびえ立つ塔がまるで城館のように見えるその情景は、テレビなどで見ることができますが、一見、中世のお城のような塔を持つこの橋は、1894年に完成した跳開式の可動橋なのです。つまり大きな船が通る時に、船の頭上が橋に衝突しないようにと、橋の真ん中を持ち上げて船を無事に通過させることがきる“跳ね橋”なのです。

完成時当時はマストを掲げた船が往来していた周辺でしたから、多くの船がこの橋の下を通過したようで橋の袂に備え付けられたエンジンルームは休む間もなく、フル回転だったと聞いています。

そして、1894年に完成して以来、今に至るまでタワー・ブリッジは現役なのです。完成時からの変化があったのは、可動部分だけ。

というのも橋の開閉は創業当時は電力はまだありませんでしたから、橋を持ち上げる動力として、蓄圧器に蓄えられた蒸気が使われていましたが、今は油圧と電気モーターで動かしています。以前、橋の開閉に使われていた水圧式エンジンは橋のシティ・ホール側にあるエンジンルームで見ることができます。

ただ、現役とはいえ今はデモンストレーションとして1カ月に数回の開閉しか行われませんので、その日はこの写真のように大勢の人だかりでそれはそれは大変なのです。

人だかりもさることながら、開閉時になると信号機には赤色が点滅し、橋の上の道路から車の姿が消えるのですから、異様な雰囲気にも包まれます。そして、見物人の視線のすべてが橋に集中しますと、その直後に橋が上がり始めるのです。

おもむろに、また重たそうに橋が上がり始めるのですが、その瞬間、見物人の歓喜の声とカメラのシャッター音で周辺は大にぎわい。

そして、最大開度の86度まで上がると橋の下に船が通過するのです。でも、この人の波ではその船の確認は難しく橋が元に戻った後、川面に視線を向けると、なんと高いマストを付けた小さな船が浮いているのです。今どきマストの船?と思いきや、それはデモンストレーション用の船で、跳開式の可動橋の雰囲気を盛り上げるために用意されたものでした。

ロンドンという街のサービス精神の素晴らしさに思わず感動しました。また、月に数度しか行われない華麗なるショーに偶然にも出会ったことに感謝した1日でした。

やはり、ロンドンという街は素敵です。

実は東京の隅田川に架かる“勝鬨橋(かちどきばし)”もこの橋と同じ跳開橋だったのですが今はその役目を終了。閉じたままです。

日本で現存する数少ない可動橋は、なぜ使われなくなったのか。

それは橋の下を通過する船の背が低くなったことで、橋を開く必要が少なくなったこと。加えて、橋上の交通量が増えて、橋を可動させる度に橋の上の車の通行を止めるために、大渋滞が起きやすくなったこと、そして、もうひとつ、開閉式の橋を維持するために高額な費用がかかるという理由で1980年、橋の可動が停止されました。

停止理由は納得しましたが、次に気になったのが“勝鬨橋”という橋の名前です。

下記は《~》内はウィキペディアからの引用した“勝鬨橋”の名前の由来です》

《明治期より架橋の計画は何度かあったものの実現せずにいましたが、1905年(明治38年)1月18日、日露戦争における旅順陥落祝勝記念として有志により「勝鬨の渡し」が設置されたのです。それは築地と対岸の月島の間を結ぶ渡し舟でしたが、埋め立てが完了した月島には石川島造船所の工場などが多く完成しており多数の交通需要があったことで、1929年(昭和4年)「東京港修築計画」に伴う4度目の計画で架橋が実現したのです》

《また、勝鬨橋の工事は1933年に着工し、1940年6月14日に完成。1940年に「皇紀2600年」を記念して月島地区で開催予定であった日本万国博覧会へのアクセス路とする計画の一環でもあったため、格式ある形式、かつ日本の技術力を誇示できるような橋が求められた。そのため、英国やドイツ等から技術者を導入せず、全て日本人の手で設計施工を行った》

命名の由来は渡し船の乗り場名「勝鬨の渡し」からきたものでした。また、ロンドンの橋はじめいずれの国の橋をモデルにして造られたものではなく、日本独自の可動式開閉橋だったのです。

(トラベルライター、作家 市川 昭子)

※筆者は「Gadgetwear」のコラムニストです。