エドワード8世も顧客だったターンブル&アッサー Turnbull & Asser in London



《顧客にはチャールズ皇太子、チャップリン、カーク・ダグラス、ロバート・レッドフォード、アル・パチーノなどの俳優の他、世紀の恋で王位を捨てたエドワード8世など錚々たる人が名を連ねる名門ブランド「ターンブル&アッサー」》

画像はジャーミン・ストリートに建つ「ターンブル&アッサー」Turnbull & Asserです。

ターンブル&アッサーのレジナルド・ターンブルとアーネスト・アッサーの2人は、シャツ職人としての20年余もキャリアを積んだ後、ロンドンで1885年、創業します。

当時は英国紳士の身だしなみの第一条件となるシャツでしたから、ロンドン市内には2万とも3万とも言われるシャツを仕立てる工房、あるいはシャツ専門店が点在していました。

そんな中、職人としての自信とデザインに自信があった二人は新店舗を探し、創業します。もちろん、勝算があったからですが、その勝算とは。

まずは客層を一般人ではなく、貴族や王族など上流社会に生きる人をターゲットにし、品揃えをしました。彼らの目を惹きつけるために、単なるシャツではなく、襟にワンポイントとして飾りを入れたり、胸飾りにクラウンマークを刺繍したりします。また、シャツに見合う狩猟用のおしゃれな手袋も開発し、半ズボンに見合う靴下にもいくつかのポイントをつけたりしたのです。

そのアイディアは成功し、他店にはない高貴な雰囲気を持つ個性的な製品になりました。

それはポイントを入れただけではなく、他の店の品物より格段上の品質の良い生地を選んだことと、仕立ての良さが加わったことで、格調高い製品に仕上がったのです。

もちろん、すべての目論見が成功しました。

ですから、二人は勝算ありと判断し、1902年、このジャーミン・ストリートの現在の場所にショップを移し、次のステップアップを狙ったのです。

新店舗に移った時点からシャツ以外に、既にネクタイや、シャツ、手袋、下着など様々な商品を扱うようにしました。それは王族や貴族たちにシャツだけではなく、自分たちの店舗だけで日常に必要な製品をトータルに揃えてもらうためでした。その目算も当たりました。

シャツをオーダーしたお客さんは、それに見合うネクタイや手袋を購入。下着までシャツに合わせて揃えてゆきました。

そして、新店舗に移って2年経過した1904年、ヴィクトリア女王の次男エドワード7世の妃アレクサンドラ王妃の乗馬用レインコートのオーダーが入ります。王室からの初めてのアプローチでした。

これを機にターンブル&アッサーは王室との結びつきを深めてゆくのです。そして、経験を積み、どこにもない斬新なデザインと仕立ての良い製品を創り続けたことで、1981年、「shirtmakers」としてチャールズ皇太子からロイヤルワラントを授与されます。

《註:アレクサンドラ王妃はエドワード7世と結婚し、3男3女の母となりますが、夫エドワードの不倫などで冷え切った夫婦関係や姑ヴィクトリア女王との愛憎表裏一体する複雑な確執などで、辛い生涯を送ります。なお、余談ですが、マラソンの距離が42.195kmになったのは、1908年のロンドンオリンピックの際にアレクサンドラ王妃自らスタート地点は宮殿の庭で、ゴール地点は競技場のボックス席の前にと注文をつけたことに由来しています》

「ターンブル&アッサー」はこのような歴史を経ながら、現在にあっても色や柄を巧みに使いこなし、シティ感覚にあふれたデザインシャツを得意とするメーカーとして、また、ビスポークシャツメーカーとして注目を集め、その名を世界中に馳せるのです。

顧客にはチャールズ皇太子はもちろん、映画の中ですがあのジェームズ・ボンド、チャップリン、カーク・ダグラス、ロバート・レッドフォード、アル・パチーノなどの俳優の他、1900年初頭にはアレクサンドラ王妃、また、20世紀にはアメリカ人女性ウォリス・シンプソンとの世紀の恋で王位を捨てたウインザー公ことエドワード8世(彼は自らこのターンブル&アッサー社のモデルになっています。それはウインザー公がいかにターンブル&アッサーと親密であったかを証明するもので、後にチャップリンもモデルに起用され、その親密さを世にアピールしています)など錚々たる名前が顧客名簿に連なったのです。

そして、1997年にアメリカ・ニューヨーク57番街、2003年にはビバリーヒルズのブライトン通りにショップを開きます。そこの2店舗でも、このジャーミン・ストリートの本店同様にビスポークと既製品のドレスシャツはじめネクタイ、スーツ、コート、ドレス・ガウン、下着、靴下などを扱い、トータルに揃えられることを自慢としています。

《付録:以下は“世紀の恋”で名を馳せたエドワード8世についてのダイジェストです》

シンプソン夫人と出会い、恋に落ちたウインザー公(エドワード8世)は、皇太子時代の昭和天皇の訪欧の返礼として1922年、来日し、4月18日に靖国神社を参拝。日本へは、1922年に昭和天皇(皇太子時代)の訪欧の返礼として訪問し、4月18日に5月5日には大阪電気軌道(現近鉄奈良線)の奈良駅〜上本町駅間の電車に乗車しました。

その後、1936年1月のジョージ5世の死後、独身のまま「エドワード8世」として王位を継承。その後、1931年頃から交際が始まったシンプソン夫人との結婚を真剣に検討するようになります。

でも、離婚歴のある夫人と結ばれる条件はただ一つ、王位継承権を捨てて退位しなければなりませんでした。

エドワード8世は12月11日午後10時1分にBBCのラジオ放送を通じて、「私が次に述べることを信じてほしい。愛する女性の助けと支え無しには、自分が望むように重責を担い、国王としての義務を果たすことが出来ないということを。(But you must believe me when I tell you that I have found it impossible to carry the heavy burden of responsibility and to discharge my duties as King as I would wish to do without the help and support of the woman I love.)」

という退位文書を読み上げて退位し、恋の成就の道を選びました。

在位日数はわずか325日で、1483年のエドワード5世以来453年振りに未戴冠のまま退位した国王となったのです。

そして、兄が退位したことで弟のジョージ6世が王位を継承することになるのですが、ジョージ6世の精神は弱く、その後、苦しみながら王の道を歩むことになるのです。

(トラベルライター、作家 市川 昭子)

※筆者は「Gadgetwear」のコラムニストです。