ポワラーヌが創業した1932年の5月15日、日本は武装した海軍の青年将校たちが首相官邸に乱入し、犬養毅首相を暗殺…。という一国をひっくり返すような大きな事件が起きています。それは皆さまも良くご存知の「五・一五事件」です。事件は今なお、ことある度に注目される歴史の重要な事件となっていますが、同年はポワラーヌにとってはパリの街角に初めてパン屋を開店した記念すべき年なのです。
《ポワラーヌの創業からの歴史》
1930年、食の文化の宝庫として知られるノルマンディーでパン職人として修業を積んだ若き青年が、自分のパン屋を開店しようとパリにやって来ました。それはこれといった財産があるわけではない一介の若者の彼にとってはとてつもなく大きな夢でしたが、どうしても叶えたくて、時間を掛けてパリの主だったエリアを歩き、店舗の候補地を探しました。
そして、最終的に当時芸術家たちが集まっていた8区のサンジェルマン・デ・プレのシェルシュ・ミディ通り(Rue du Cherche Midi)にターゲットを絞り、1932年12月、パン屋を開きます。サンジェルマン・デ・プレ界隈の状況を友人から聞いていたこともありますが、人通りが多く行き交うという条件が、彼を納得させたのです。
ただ、“人通りの多い場所”である大通りから少しだけ小路に入ったシェルシュ・ミディ通りでしたから、満を持しての決定ではなかったのですが、そこを訪れた途端、ここで出店すれば良い結果が出るという予感があったのです。
予感の中で彼ことピエール・ポワラーヌは、店舗の場所をシェルシュ・ミディ通りに決めます。そして、そこでこれがフランスのパンだといって胸を張れるパンを開発し、販売することを決意するのです。
そのパンは、今現在でも人気の定番商品となっている石うすでひいた小麦粉と海塩を使い、木燃焼オーブンで焼いた丸いオフホワイトのパン“サワードー・ローフ”なのです。
でも、当時はパリの人たちが好んで食べていたのは、バゲットでした。ですから伝統的なものとはいえ、ピエールが造るサワードー・ローフがパリの人たちに気に入られるか自信はなかったのですが、彼の意思は固く、また、周辺には5軒のパン屋が軒を連ねていましたが臆せず、初心を貫き通しました。
激しい競争にもかかわらず、長持ちのするパンであったことで、ピエールの冒険的な挑戦は少しずつ良い方向に向き、売れ始めます。繁盛とまではゆきませんが、でも、周辺のパン屋と互角に勝負し始めたのです。
第二次大戦後、やわらかくて真っ白なパンに人々の人気が集まったときにも、ポワラーヌは様々な非難の中で伝統的なパン製法をかたくなに守り続けました。初志貫徹です。自分を信じて必死に頑張ったのです。
そして、1970年初期に家業を引き継いで二代目となったライオネル・ポワラーヌも、14歳から父のパン造りの見習いを始めた勤勉家でしたから、初代同様に常に伝統を守りながら革新的なパンを造ろうと日々、精進をしました。
ライオネルも父ピエールに続きこだわりました。また、フランスの小麦産地で有名なボース地方やブリ地方の最高級のものをブレンドし、そこに胚芽やふすまなどを合わせ挽いたものや、ゲランド産の天然海塩を加えたポワラーヌのパン生地の開発もしてゆきます。
それは生地を店の地下室で大切に自然発酵し、父親が考え出したもみの木の薪をくべた石窯でじっくりと焼き上げる、という手法を守りながら、窯に入れる直前にライ麦の粉をたっぷりとかけ、見た目と香ばしさを演出したのです。
その段階でライオネルは、先代の工法を守りながら、天然酵母パンの美味しさを前面に出すという彼独自の世界を構築したのです。
その後、「フランスの伝統的なパンと言えばポワラーヌ」と言われるほどになり、ロンドンへの出店を皮切りに世界にその名を馳せるようになるのです。
でも、彼はロンドン店の開店準備に2年という長い時間を費やしました。なぜだかお分かりですか?
それは1666年の下町の大半を焼き尽くしたロンドン大火は、パン屋の窯の火が火元だったからでした。その過去の辛い経験から、ロンドン市は彼がこだわる“木燃焼オーブン”を使う許可を簡単に出さなかったのです。ですから、その許可を取得するために彼は2年も粘ったのです。
薪を使わなければすぐにでも許可は出たのですが、彼は2年間という時間を犠牲にしてでも“ポワラーヌのパンの味”を守りたかったのです。
そして、ライオネル・ポワラーヌは2000年6月に、フランス国外初としてロンドン店を開きます。
それは初心を忘れずに、夢を叶えるまで2年間、頑張った結果でした。
夢を叶えるために努力を惜しまなかったライオネル同様に彼の亡き後、娘のアポロニアはその夢を引き継ぎ、今も父親と祖父が残した“ポワラーヌのパンの味”を守っています。
画像は1932年12月に先代が創業したサンジェルマン・デ・プレのシェルシュ・ミディ通りに建つポワラーヌの本店です。
(トラベルライター、作家 市川 昭子)
※筆者は「Gadgetwear」のコラムニストです。