支倉常長ゆかりの館 Palazzo Borghese in Rome



過日、日本の国宝指定となっている「慶長遣欧使節関係資料」の中の資料の一部と“支倉常長像”3件、そして、スペインが保存している常長が当時のスペイン国王フェリペ3世に宛てた書状や徳川家康、秀忠の朱印状など94件などがユネスコ記憶遺産に登録されました。

“ユネスコ記憶遺産”に登録されたその事実とこれから解説します『支倉常長ゆかりの館』とを重ね合わせてお読みいただけると幸いです。

1609年、ドン・ロドリゴの一行がマニラからヌエバ・エスパーニャVirreinato de Nueva España(ヌエバ・エスパーニャは、1535年から1821年まで北アメリカ大陸はじめカリブ海、太平洋、アジアの一角を占領下に置いたにスペイン帝国の副王領地を指します)への帰路、台風に遭い、上総国岩和田村(現在の御宿町)の海岸で座礁難破という事故を起しました。

その時、岩和田村に住む漁民たちが、自分たちの身の危険を顧みずスペインの船員たちを助けた、という心温まる実話が残っていますがそれだけではなく、そのことを知った徳川家康が大型の船をドン・ロドリゴの一行に贈ったことで、彼らは全員、無事に母国へ帰還できることとなった、という素晴らしいエピソードも残されているのです。

それは徳川家康の時代には外交顧問だったウィリアム・アダムスの尽力により、既にヌエバ・エスパーニャと日本との交流が始まっていましたから、日本は親交国として当然の処置だったかもしれませんが、それゆえに彼ら一行は家康とも面会したりして、厚遇を受けたと記録されています。

歴史の勉強でも多くの人がこの辺りのことは学んで知っているとは思いますが、この事をきっかけにして、日本とヌエバ・エスパーニャの間で、なおいっそう親密な交流が始まったのです。

そして、慶長18年1613年、家康の信頼を得ていた伊達政宗の命を受け、伊達藩の藩士だった支倉常長は、フランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを団長にした慶長遣欧使節団を結成し、エスパーニャ帝国(スペイン)の国王フェリペ3世、およびバチカンのローマ教皇パウルス5世の謁見と2つの国との通商交渉を目的としてスペインを目指します。

渡航は悪天候続きでした。ですから、16人の使節団は何度も遭難の危険な目に遭いながらも、日本を出てから3年目、1614年の10月にスペインのセビーリャに到着します。12月には念願のマドリッドに入り、1615年1月30日、常長ら使節はエスパーニャ国王フェリペ3世に謁見します。

そして、徳川幕府の指示の元、親交国としての目的を果たした後、2月17日、常長はフェリペ3世ら臨席のもと、王立修道院の付属教会で洗礼を受け、約半年間の滞在後、8月22日、使節団はマドリッドを出発。

次の目的地ローマへ向かうのですが、近いとはいえ、今度は陸路。約2ヵ月間の旅を終えて10月5日、ようやくローマに到着します。そして、1週間後の1615年11月3日、ローマ教皇パウルス5世に謁見するのです。

謁見後、通商交渉も順調に進んだ支倉常長を隊長とした慶長遣欧使節団は、各国の大使らと共にサンピエトロ広場を通って、カンピドリオの丘の市庁舎の広場までローマ市内を凱旋したと記録されています。

また、ドン・フィリッポ・フランシスコというキリスト教の洗礼名もある常長は、その折り、ローマ市の公民権を与えられ、名誉ある貴族の称号も授与されています。

その後、数年間のヨーロッパ滞在の後、2カ国の熱い信任も得た使節団は役目を終え、日本を出て10年を経過した1620年、帰国するのですが常長を待ち受けていたのは、キリスト教弾圧でした。それも激しさを増していた頃でした。

自分と同じように洗礼名を持っていた息子の常頼はキリシタンであったことで既に処刑されていましたし、帰国した常長自身も教徒であることで、それまでのポストが何であれ一介の反逆者として捉えられてしまいます。

囚われの身となった常長は、獄中での生活の苦しみよりも、他の何よりも落胆したのは、キリスト教弾圧により、10年という長い期間を費やし、命がけで得てきた外交交渉が前に進むことなく、頓挫したことでした。

そのことに苦しみ、大きな悲しみを覚えた支倉常長は、精神を病みうつ状態になってゆきます。

そして、帰国した2年後、心労が重なり51年の生涯を終えるのでした。

《註》常長の墓所は宮城県仙台市の光明寺にあります。でも、彼は51歳で生涯を終えたのではなく、政宗が常長の身を思い、帰国後間もなく病で死んだことにし、実際には宮城県大郷町に隠れ住み、天寿を全うして84歳で死んだとする説もあるのです。また、墓所は仙台市の光明寺も含めて、大郷町と川崎町支倉にもあり、常長の墓が宮城県に3つ存在しています。宮城県にとっては常長がいかに重要な人物であるかをうかがい知ることができます。

画像はローマの中心地に建つボルゲーゼ宮Palazzo Borgheseです。宮殿は1560年、ポッジョ家がトンマーソ・デル・ジリオに売り渡した後、1604年枢機卿カミッロ・ボルゲーゼ(後にローマ法王パウルス5世となり、支倉常長一行と謁見をします)が一族の居館として買い取り、当時の売れっ子建築家フラミニオ・ポンツィオとカルロ・マデルノを起用して建築途中だった館を完成させたものです。その後、1670年にはカルロ・ライナルディにより、外観の大半の改修と庭園を造園して今に至ります。

宮殿の自慢は地上階に12の大型客室を埋め尽くす絵画コレクションで、ラファエロはじめドメニキーノ、ロレンツォ・ロット、コレッジョ、ティツィアーノなど、ルネサンス期の巨匠たちの作品群の他、ローマで貴族の称号を与えられた「支倉常長の肖像画」が保存されていることです。

支倉常長の肖像画は、当時のイタリア貴族と同じような衣服をまとった姿ですが、館を訪れた者たちの目には、イタリア人と見間違うほどの凛々しい支倉常長像が描かれていることで、多くの人を魅了し続けています。

今回、ユネスコ遺産に登録された支倉常長像は、ここにコレクションされているものと、同時期に描かれた作品と思われます。

宮殿敷地内の花崗岩の100本の円柱や噴水、彫像、そして、四季折々の花々が咲き誇る花壇の数々が飾られた中庭も素晴らしく、それゆえに喧騒の中のオアシスとしても知られるここは、ローマを訪れた多くの人々にとって、一度は訪れたい城館のひとつに数えられています。

《安土桃山時代から江戸時代前期に掛けて生きた常長は、江戸時代初頭に数年間ヨーロッパに生き、政治的にも友好的にも功績を残した一人の日本人です。そして、江戸時代初頭の激動の時代を生き抜いた一人のキリシタンでした。

支倉常長はどんな困難に出遭っても、自分を見失わずにキリシタンとして生きたと伝えられますが、時を超えて奇しくも今、こうしてユネスコ遺産に登録されたことが、その証しとなりました》

自分の命を無駄にしないで、危険を顧みず遠い異国で任務に忠実に生きた、そんな彼ら一行を私たち日本人は、誇りを以って世界にアピールしたいと思います。

(トラベルライター、作家 市川 昭子)

※筆者は「Gadgetwear」のコラムニストです。