白洲次郎も顧客だったサヴィル・ロウ最古のテーラー Henry Poole & Co in London



1919年(大正8年)神戸一中を卒業し、ケンブリッジ大学クレアカレッジに聴講生として留学、西洋中世史、人類学などの授業を聴講した白洲次郎。

彼はジョージ6世の父ジョージ5世の時代に英国に留学し、1928年(昭和3年)に帰国。その後、語学力を買われて海外に赴くことが多く、当時駐英国特命全権大使であった吉田茂の面識を得、英国大使館をみずからの定宿としたりします。

第二次大戦中には夫妻共々、現在の町田市鶴川に疎開しますが、終戦を迎えた日本の戦後処理には、英国で旧知の仲となった吉田茂首相の懇請で終戦連絡中央事務局の参与に就任し、英語力を以て主張すべきところは頑強に主張し、アメリカのGHQ某要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた人でした。

画像は白洲次郎がロンドン在住中に顧客として名を連ねた英国の名門老舗“ヘンリー・プール”Henry Poole & Coです。

ロンドンのサヴィル・ロウ15番地に本店を構える紳士服テーラーであるここは、サヴィル・ロウ最古のテーラーとして広く知られ、その歴史は1806年にブランズウィックスクエアのエヴェレット・ストリートにリネン製品の呉服商を開いたジェームス・プールが創業した呉服商を起源としています。

創業者のジェームズ・プールは、当初はチュニックを主に作り、軍服の仕立を専門とするテーラーとして店をオープンします。

なぜなら、ジェームズ・プールはワーテルローの戦い(この戦いについては下記の《註3》を参照)に従軍したこともあることで、兵士たちがどのような軍服を求めているかを知っていました。ですから自分が兵士だった頃の経験を生かし、軍服の仕立てを主にして創業したのです。

運が良かったとも言えますが、当時、ロンドン市内に軍服の専門店が数少ないこともありましたが、呉服商が数少ないこともあって店は流行り、オープンしてから約20年後の1822年、リージェント・ストリート181番地に大型店舗を開くまでに大きく成長します。

しかもその後も店の繁盛は順調に続いたことで、オールド・バーリントン・ストリート4番地に本店を建て、その繁栄ぶりを内外に知らしめたのです。当然、知名度も上がり、その頃からロンドンきっての人気ブランドとして活躍するのでした。

1846年、創業者のジェームス・プールが生涯を終えると、父親であるジェームスの元で商法を学んでいた息子のヘンリーが店舗を引き継ぎ、同年、このサヴィル・ロウに店を移します。

ここではそれまでにない規模の大きさと瀟洒な構えを誇る宮殿のようなショールームを作り、内外に大きな反響を呼びました。それゆえでしょう、それを機にして通りにはテーラーを営む同業者が徐々に集まるようになり、サヴィル・ロウはいつしか世界で最も有名なテイラー街に育っていったのです。

《註1》社名を“ヘンリー・プール”としたこの店は、1961年、サヴィル・ロウと周辺の再開発に伴いコーク・ストリートに一旦は移転したものの、1982年に現在のこの15番地に本店を復帰させています。

父親が天国へ旅立った30年後の1876年に息子ヘンリー・プールも生涯を終えます。ヘンリーには跡継ぎがいなかったことで、テーラーはそれまで共に生きてきた従弟のサミュエル・カンディが後を継ぎます。

それまで順調に成長してきた店でしたが、先代ヘンリーが賞賛していたサミュエル・カンディの商才は素晴らしく、彼はヘンリー亡き後、ヘンリー・プールをほぼすべてのヨーロッパの国王の御用達とし、1900年初頭には、何と300人のテーラーと14人のカッターを抱えるという、この業種では世界で最大規模に育てあげたのです。

創業から現在まで、サミュエル・カンディに引き継がれてから更に5代に渡り継承されてきたヘンリー・プール社は、創業以来の伝統を誇る軍服や各種の儀礼服を現在でも作り続けており、宮中服では1976年にエリザベス2世のロイヤルワラントを受けるという輝かしい名誉も得ています。

そして、日本で初めてジーンズを穿いた男性で知られ、連合国軍占領下の日本で吉田茂の側近として活躍し、日本のオピニオンリーダーとして知られるあの“白洲次郎”も英国留学時よりこのヘンリー・プールの常連顧客として名を連ね、スーツやシャツをオーダーしていたのです。

おしゃれな次郎氏でした。見る目は高く、さすがと言いたいのですが、でも、彼はこの名門の洋服でも自分のおしゃれの定義を変えることなく、実践しての着用でした。

それは折角の名門の製品でありながらすぐに着用せず、何と軒下に吊るしてヨレヨレにしてから身につけたというのです。それはお洒落にこだわりを持った真のお洒落人であったからですが、それゆえにヘンリー・プールでは当然、ビスポークでオーダーし、自分のためだけに作られた、世界でたった一着のスーツであり、シャツであったと伝えられます。

《註2》ビスポーク・テーラーとはお客さんに希望を話される(Be spoke)から作られた造語で、この通りサヴィル・ロウが発祥とも言われています。テーラーの世界におけるこの言葉は、お客さんが好みのスタイルを選ぶ際に、熟練のカッターと会話を交わしながら進めていくやりかたを意味し、それはまるで無地のキャンバスに絵を描くようにして、服をデザインしてゆくことなのです。カッターはその折り、縫製過程までも頭に描き様々な角度からパターンを調整し、最終的に完璧な型紙を作りあげます。いわば、お客さん個人のための職人となって、要望に沿う洋服を創り上げるのです。

《註3》下記は“ワーテルローの戦い”について、ウィキペディアからの引用です。

“1815年6月18日に英国・オランダ連合軍およびプロイセン軍が、フランス皇帝ナポレオン1世率いるフランス軍を破った戦いである。ナポレオン最後の戦いとして知られる。1815年にエルバ島から帰還し皇帝の座に返り咲いたナポレオンは、第七次対仏大同盟の態勢が整う前にこれを撃破することを企図。フランス国境北東部付近に位置していた初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー麾下の英蘭連合軍とゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル元帥のプロイセン軍を打倒すべく、自ら12万の兵力を率いて出陣した。両勢力は1815年6月16日から3日間に渡り交戦し、ナポレオンは前哨戦となるリニーの戦いでブリュッヘルのプロイセン軍に勝利したものの、6月18日の戦いで大敗し潰走を余儀なくされる。連合軍はこれを追撃してフランスに侵攻し、ルイ18世を復位させた。退位したナポレオンは英国に降伏してセントヘレナ島に流され、1821年にこの地で死去した(百日天下)”

(トラベルライター、作家 市川 昭子)

※筆者は「Gadgetwear」のコラムニストです。