愛しい人への思い・ミケランジェロの遺作 Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni



ミケランジェロは1475年3月6日フィレンツェ共和国、カプレーゼに生まれ、1564年2月18日、88歳でローマにて生涯を終えます。

“イタリア盛期ルネサンス期の彫刻家、画家、建築家、詩人。西洋美術史上のあらゆる分野に、大きな影響を与えた芸術家である”

とウィキペディアでは紹介されていますが、正にその通りで、マルチ芸術家でしたし、生涯に数えきれないほどの建造物、彫刻、絵画などの作品を遺しているのです。

ミケランジェロの世界に魅せられてもう何年になるのでしょうか。いつも意欲的でありながら悩み続け、いつも強靭さを見せながら精力的に仕事をこなしていた巨匠でしたが、実のところは寂しく孤独な人生を送った芸術家のひとりでした。

最終的に彼が求めたマニエリスムの世界。その世界で人生を嘆くような表情を見せる作品を作り続けたことはその証しでしょう。

また、彼の孤高さが作品の中で余韻となって描かれていることにより、観る者は魅せられ、惹かれ、最期、絶筆となった“ロンダニーニのピエタ”まで彼を追うことになるのです。

画像の作品がその未完であり絶筆となった「ロンダニーニのピエタ」です。

ミケランジェロ自身も建築に携わったというミラノの「スフォルツァ城(現市立博物館)」の一室にひっそりと置かれたこの作品は、一度作業を中断して(中断の理由は後記)晩年の1559年、84歳から制作を再開しています。

この頃は既に視力を失いつつありましたから、手探りで作業をしたと伝えられますし、ローマのシスティーナ礼拝堂の仕事から腰を痛めたままだったこともあり、曲がった腰のままで作品を作り続けていたミケランジェロでした。そして、晩年、死を間近にする自分を知っていたミケランジェロは、その予感の中で、ピエタを彫り続けます。

「ピエタ」とは慈悲などを意味し、磔刑に処された後に十字架から降ろされたイエス・キリストを腕に抱く聖母マリアを題材とする宗教画や聖母子像のことを指しますが、ミケランジェロは88歳の生涯にそれを題材とした像をこの作品を含めて4体制作しています。

その一つが誰もが知るローマのサン・ピエトロ大聖堂の1500年頃完成の『ローマのピエタ』です。2つ目は1547年頃の作品『フィレンツェのピエタ』、3つ目は1555年頃の『パレストリーナのピエタ』、そして、このミラノのこの『ロンダニーニのピエタ』です。

最後4点目となったこの『ロンダニーニのピエタ』は晩年にあって、我が身の終わりを知っているかのように、今まで以上に死への思い、その現実への悲しみを深くした慈悲に満ちた聖母の表情を特徴とします。未完とはいえ、屍となった我が子を抱くその表情は、母としての深い悲しみを称え、いたたまれないほどの苦しみを見せています。

また、死した身体でありながら聖母マリアに抱かれたことにより、死への旅立ちへの恐怖が癒されたピエタ(キリスト)の人間味にあふれた表情がなおいっそうの悲しみを誘うのです。

《註:この像を後ろから見ると、マリアがイエスを抱いているというよりも、イエスがマリアを背負っているかのように見えるのです。これはイエスを亡くして悲しむマリアをイエスの霊が慰めている様を表現するために、ミケランジェロが意図したのだと伝えられます》

この作品を目の前にした時、数えきれないほどの作品の中で、ミケランジェロはなぜ最期の作品の題材に“ピエタ”を選んだのか考えました。でも、その後、すぐにフィレンツェのドゥオーモ博物館に展示されている「フィレンツェのピエタ」を想い浮かべていました。

なぜならその作品は自分の墓所に飾るために制作を始めたからです。また、この作品「ロンダニーニのピエタ」と同時に制作を始めているからです。

そして、「フィレンツェのピエタ」の素描には“いかほどの血が流れたのか、知るよしもなし”という『神曲』の「天国篇」第29歌が書かれているということも思い出したのです。

この一節は、彼が思慕を寄せる未亡人ヴィットリア・コロンナのために描いた「ピエタ」の素描の十字架の柱に書かれていたものと同じものなのです。

そうなのです。未亡人のために描いた素描の十字架の柱は画像の「ロンダニーニのピエタ」と「フィレンツェのピエタ」の出発点となっていたのです。私はそのことに気付きました。

つまり、最期の作品の題材にピエタを選んだのは、愛おしい人への想いが数十年経過しても未だミケランジェロの胸の内にあったから、彼の心の中で生きていたから、夫人と同じ世界に没後生きたいがために、最期の作品の題材に“ピエタ”を選んだのです。もちろん、その思いが込められた作品を、自分の墓地に飾るためにです。

自分と夫人は自分の死が分かつその日まで共に生きてきたことを、この作品で証し、なお、死後も共に生きるための作品ではなかったか。

ミケランジェロの夫人への思いは最期までこうして在り続けていた。そう思います。

《註:60歳を過ぎたミケランジェロが1536年か1538年頃、ローマで知り合った貴族の未亡人ヴィットリア・コロンナ夫人Vittoria Colonnaは、当時、40歳代後半の詩人でしたが、誰もが振り返る程の美しい女性でした。その夫人に想いを寄せ、夫人もミケランジェロに深い友情を抱き、短い間でしたが幸せな時間を共有したのです》

《下記“”内はウィキペディアからの引用で、4作のピエタの収蔵先です》

“ミケランジェロが制作した4作品(ただし、完成したのは『サン・ピエトロのピエタ』のみ)の通称と制作年、現在の収蔵場所は以下の通りである。

『サン・ピエトロのピエタ』(1498年~1500年、サン・ピエトロ大聖堂) 『フィレンツェのピエタ』(1547年?~/フィレンツェ、ドゥオーモ博物館)未完成 『パレストリーナのピエタ』(1555年?~/フィレンツェ、アカデミア美術館)未完成 『ロンダニーニのピエタ』(1559年~/ミラノ、スフォルツァ城博物館)未完成

とりわけ『サン・ピエトロのピエタ』は、他の芸術家によっても同じ題材で数多く作られたピエタと比較しても肩を並べるもののない傑作であり、これによってミケランジェロの名声は確立された。また、視力を失いながら手探りで制作を続けたといわれる4作目『ロンダニーニのピエタ』はミケランジェロの遺作となった”

(トラベルライター、作家 市川 昭子)

※筆者は「Gadgetwear」のコラムニストです。