2015/05/04

ミケランジェロの愛の世界/サンティ・アポストリ聖堂 Basilica Santi Apostoli a Roma


イタリア・ローマの中心地、トレヴィの泉近くに建つこのサンティ・アポストリ聖堂Basilica Santi Apostoliは、ビザンチン総督のNarsesにより、ゴート族追放の勝利の記念として、ローマ法王の命で6世紀半ばに創建されたもので、長い歴史を誇ります。

そして、今日に至るまでのその間、聖堂は多くの災害に遭ったり、出来事に巻き込まれてきました。そのひとつが、1348年、ローマ周辺を襲った大地震でした。当時は聖堂ではなく教会でしたが、建物は大きく損傷し、改修してもままならないという憂き目に遭ったのです。

その不運な地震が起きてからおよそ70年後、菩提寺だったことと一族のオッドーネ・コロンナが教皇マルティヌス5世に就任していたことで、周辺地域を所有していた貴族のコロンナ家が教皇に聖堂の復興を願い出たのです。

その結果、1417年、教会は修復され、元の姿より数倍立派な姿で復活し、同時に格式ある教会として認められ、聖堂となります。

そして、後年、1665年には名工として知られていたカルロ・ライ・ナルディCarlo Rainaldiにより、聖堂上壁に窓を配しキリストと使徒の彫像を追加したりして、華麗な外観を完成させるのです。

でも、その40年後の1702年、法皇クレメンス12世の時代になると、当時活躍していた建築家カルロ・フォンターナとフランチェスコ・フォンターナにより、またもや改修が実施されるのですが。

改修された建物は、創建時代とは大違い。また、聖堂とは名ばかりでその豪奢さはまるで宮殿のようにも見え、ローマっ子を呆れさせたのでした。

内部の壮麗で贅を尽くした装飾もさることながら、聖堂には2つのルネサンス様式の回廊があるのですが、その壮麗さは18世紀初頭から現在まで変わらないことで、訪れし者たちを魅入ります。そして、そのひとつがこの画像の回廊です。

回廊はローマで最期を迎えたミケランジェロの遺体がフィレンツェの墓所に埋葬されるまでの間、石棺に納められて安置されていたという場所でもあり、ミケランジェロを偲ぶには格好の場所で知られています。

ミケランジェロは1534年から1541年10月まで「システィーナ礼拝堂」の壁画制作のためにローマに長期滞在をします。難儀で苦労の多い礼拝堂の壁画制作でしたが、法王から依頼された任務とあらば激務にも耐えなければならず、苦しみの日々を送ったと伝えられます。

そんな中、フィレンツェからローマに来て2年目の1536年のある日、彼は46歳の詩人であり未亡人のヴィットリア・コロンナ夫人Vittoria Colonnaと出会います。

当時詩人として活躍していた彼女は、その美しい姿と実直な性格、そして、優しいその声に誰もが振り向くほどだったと伝えられます。

もちろん、ミケランジェロもその中の一人であり、彼女に惹かれます。

ミケランジェロは孤独を好む陰鬱な性格で、人付き合いを避け、内に引き篭もるような性格でしたが、夫人と出会ったことで生活も少しずつ変化し、その時、既に61歳になっていましたが気持ちは青い春のように明るく軽くなってゆきました。

そして、いつしか仕事の合間に夫人にソネット(Sonnetとは14行から成るヨーロッパの定型詩でルネサンス期にイタリアで創始されました。それがヨーロッパ中に広まり、今なお現存です)を贈るほどになります。

そんなミケランジェロに夫人も真摯に向き合い、次第に深い友情を交わすようになり、ソネットを交換し合う仲となってゆきます。

二人は誰にも邪魔されることなく静かに愛にも似た友情を育みました。

ミケランジェロはそれまでの索漠とした生活の中で、孤独という寂びしさを嫌というほど味わってきただけに、夫人との交流に生きる歓びを見出したのでしょう、詩の交歓だけではなく、夫人のためにデッサンをしたり、夫人に捧げるための「ピエタ」の素描をしたりもします。

《その後、ミケランジェロの代表作の一つ、システィーナ礼拝堂のフレスコ画「最後の審判」の中に描かれている聖母マリアの顔をコロンナ夫人の顔としたのです》

でも、彼女は1547年2月25日、病に倒れ55歳という若さで天国へ旅立ってゆきます。

コロンナ夫人の死により、ミケランジェロに深い悲しみに襲われました。また、途方もなく深い嘆きにも襲われもしました。その悲しみにくれる姿は、あまりにも哀れで周囲の者たちは手の施しようもなかったと伝えられます。

そして、ヴィットリア・コロンナ夫人の死後、72歳のミケランジェロはまだ忘れ得ない夫人とのことをこう嘆いたそうです。

“Mi voleva grandissimo bene, e io non meno a lei.More mi tolse uno grande amico.”(彼女は私にほんとうに大きな幸福を願っていた。私もそうだった。死は私から一人の偉大な人を奪ってしまった)

それは10年ほどの夫人との世界でしたが、ミケランジェロが最後に友人として、また人として愛した女性との世界だったからです。

《二人の交流は1538年頃、コロンナ夫人が48歳、ミケランジェロが63歳の時に始まり、以後、1547年の夫人の死まで続いたのです》

そして、人の世では結ばれることのなかった二人でしたが、コロンナ夫人が天国へ旅立ってから約17年後、コロンナ家の菩提寺であるこのサンティ・アポストリ聖堂に眠る夫人の傍らで、ミケランジェロは永遠の眠りに就いたのです。

ミケランジェロの亡骸をフィレンツェに送る前の一時を、この聖堂に保管しようと決めたのが、法皇だったのか誰なのかは判りませんが、周囲の人たちもミケランジェロの夫人への深い思いを知っていたから、このような粋な計らいをしたのだろうと思います。

ミケランジェロと夫人との世界を知っていたから、責めて最期だけは誰にもはばかることなく、一緒にいさせてあげたい。

最期だからこそ一緒に眠らせてあげたい…。そう思ってのことだと思います。

(トラベルライター、作家 市川 昭子)

※筆者は「Gadgetwear」のコラムニストです。
Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...