スペインの巨匠ゴヤの哀しき生涯 Francisco de Goya



本名フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテスという長い名前を本名とするスペインの画家ゴヤ(1746年3月30日~1828年4月16日)。

彼は1746年、スペイン北東部サラゴサ近郊の小さな村で生まれ、14歳の時から約4年間、サラゴサで地元の画家に師事して絵画の修行をします。そして、27歳の時、そこで知り合った兄弟子バエウの妹ホセーファと結婚。でも、結婚生活はゴヤの画家としての生活には不向きだったのでしょうか、結婚してほどなく離婚します。

翌年、ゴヤは元妻の家族が住む町に居たたまれず、傷心を抱えたままサラゴサを出てマドリッドへ行き、王立タペストリー工場で下絵描きの仕事を見つけて、そこに約10年間勤めます。

それはゴヤが離婚という哀しい現実から逃避することもありましたが、それを機に本格的に画家としての道を歩もうと決心をしたからです。

ですからその間、働きながら近代絵画が何たるかを独学で学び、画家としてステップアップして、一歩二歩も前に進むよう必死に努力をしました。そして、その努力が実を結び、1780年、スペイン王室や貴族の肖像画を描くチャンスに出会うことができるサン・フェルナンド王立美術アカデミーへの入会が認められます。

サラゴサを出た時から宮廷画家になることはゴヤの夢でしたから、それからの数年間は王家に認められる画家として、再び精進を始めるのです。

ゴヤは負けず嫌いでした。また、人よりも常に一歩も二歩も前にいなければ気が済まなく、満足しませんでした。ただ、寡黙な人でしたから闘志をむき出しにすることはなく、努力をするにしても精進するにしても、常に淡々としてやり遂げましたし、また、自分を決して甘やかすことはなく、自分に厳しい人でもありました。

ですから、その努力は常に実を結び、宮廷画家になるためのチャンスはアカデミーに入会して6年後、以外にも早くやってきたのです。

ゴヤが夢に見た宮廷画家になったその頃は、スペインはもちろん、ヨーロッパの画壇は華麗で豪華な雰囲気を特徴とするロココ美術が流行の真っ只中にありました。でも、それらの大半が華やかな色遣いでしたから、幾分食傷気味になっていたのでしょう、ゴヤの写実性に富んだ作風に斬新さを感じた王家は、ゴヤを1786年に国王付の画家とし、また、同年、新国王となったカルロス4世の時代になると、王直々に宮廷画家としてゴヤを任命するのです。

宮廷画家に任命されたその時は、ゴヤは40歳を超えようとしていました。ちなみにベラスケスは24歳で宮廷画家になっていますから、ゴヤは遅い出世と言ってもよいかと思います。

でも、故郷を出てから14年目にようやく手にした夢の世界です。あるときには虐げられ、貧しい生活を軽蔑されながら長い間生きてきたゴヤでしたから、その名誉と安定した生活の中で、好きな絵を毎日描ける歓びは何にも代え難く、天にも昇る気持ちで日々を過ごしていたのです。

ところが宮廷画家になって6年目の1792年、ゴヤは何日も何日も原因不明の高熱に襲われ、大病に侵されます。そして、ようやく熱が下がって寝起きが一人でできるようになったその日、聴力を失っている自分に気づくのです。

両耳とも聴こえなくなっていたのです。死の淵からようやく這い上がってきたゴヤにとって、それは青天の霹靂でした。

よもやのことでした。ですから、そのことがしばらくは信じられなかったのです。

でも、医師に伝えられ、数日間音のない世界に生きたとき、初めて現実に起きていることを直視したゴヤ。心が荒んでゆく自分を止めることができませんでした。音のない今が、狭く不安で怖くて仕方ありませんでした。

恐怖は身体を震わせもしましたが、でも、彼は持ち前の気丈さで踏ん張りました。懸命に戦きながら耐えたのです。そして、自分に言い聞かせました。

“目が見え、手足が動く…。それだけでも救われた。それだけで生きてゆける。絵も描ける”

ゴヤはそこに光明を見出し、今一度、宮廷画家として生きようと決するのです。

悲しく辛い現状に屈することはなく、目の前の突然の悲劇にただひたすら耐え忍んだことで、聴覚を失う前より意欲的に作品と向き合うことができるようになります。

そして、次々と傑作を完成させるのです。

それらはゴヤの代表作となった『カルロス4世の家族』『着衣のマハ』『裸のマハ』『マドリード、1808年5月3日』などです。いずれも、聴力を失ってからの作品です。

でも、ようやく立ち直った彼にまた一難が降りかかります。それは1807年、ナポレオン率いるフランス軍がスペインへ侵攻してきたときから始まりました。

フランス軍はマドリッドとスペイン全土を手中にしたく、強力な戦力を以って進攻してしてきたのです。ですから戦う間もなく、翌1808年、街も国もナポレオン軍の支配下に置かれてしまうのです。でも、マドリッドはもちろん、スペイン全土、一旦は負けを認めますが必死に踏ん張ります。懸命に踏ん張ります。

そして、フランス軍の支配下に置かれた民衆たちが決起し、兵士たちと共にフランス軍への抵抗を始めたのです。1808年から1814年にかけて事実上、スペイン独立戦争を起こしたのです。6年間という長い戦いはマドリッドの市民を巻き込んだものでしたから、多くの死者を出し壮絶なものとなりました。

その中で耳の聞こえないゴヤは、銃を持って戦うことはできませんでしたが、フランス軍に睨まれることを承知で悲惨な戦いを描き続け、絵筆で戦いました。それは『1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での銃殺』や住んでいた家の壁に描いた連作『黒い絵』などに代表されるもので、数々の名作を描いたのでした。

当然、フランス軍政府から睨まれました。そして、日々、言論も絵筆の自由も徐々に奪われてゆきます。また、マドリッド市民全員が自由主義者弾圧下にあり、その弾圧は日々、ひどくなってゆきました。

それでも市民たちは戦きながらも、死を覚悟で必死に抵抗をしました。でも、力の差は歴然としていましたから、犠牲者が増えるだけで、現状は変わらず誰もが悲嘆する毎日を送るのです。

そんな状況の中、スペインでの生活に明るい明日という未来のくる日が遠いことを知ったゴヤ。ひどくなる自分への弾圧から逃れるために、1824年、78歳の時にフランスに亡命します。それは余命が少ない自分を知っていましたから、せめて、最期は静かに迎えたいと思っての決心でした。

そして、フランスのボルドーを永住の地として選んだ彼は、2年後の1826年に一度はマドリッドに戻りはするものの、スペインでの画家としての活動を諦め、ボルドーに戻った翌年の1828年、82歳で孤独な生涯を終えます。

画像の作品は、聴覚を失った後の1805年頃のもので、ルーヴル美術館所蔵の『La femme à l'éventail』です。

タッチが優しく筆運びに人間味が美しいほどにあふれています。観ていて気持ちが癒される、柔和な世界が画面に広がっています。ゴヤの“生きる哀しみ”を感じさせるような、そんな作品です。哀しいけれど彼の落ち着いた心が見えるようで好きです。

(トラベルライター、作家 市川 昭子)

※筆者は「Gadgetwear」のコラムニストです。