日本にゆかりの深いミレー



ゴーギャンたちのグループ「ポン・タヴェン派」が1886年以来、制作活動を続けたブルターニュ地方のポン・タヴェンやイタリアの国境近くの海辺の町サン・トロぺに画家たちが集まってくる以前に、フォンテーヌブローの森のはずれの小さな村「バルビゾン」が画家たちのたまり場として有名になりました。

というのも1820年を最初にして、ここには当初ルソーたちが住みつき、パリとは異なる牧歌的な雰囲気と環境の良さに魅了されたミレーやシャルル・ジャックなどが次々にこの村に居を移してきたからです。

そして、1830年、この村に定住する画家たちコロー、ミレー、テオドール・ルソー、トロワイヨン、ディアズ、デュプレ、ドービニーの7人が代表となってバルビゾン派を結成します。

「バルビゾン村やその周辺に画家が滞在や居住し、自然と光りを直接観察して描くこと、そして、自然主義的な風景画や農民画を写実的に描くこと」をルールとしたバルビゾン派を結成したのです。

派の人数は、1870年代までには100人を超えるものとなり、当時の画壇の注目の的となっていましたが、その中心的な存在の一人がこの作品を描いたミレーでした。

画像はフォンテーヌブローの森のはずれにあるシャイイの農場の情景を描いたバルビゾン派を代表するジャン・フランソワ・ミレーJean-Francois Millet(1814年10月4日~1875年1月20日)の1857年の作品「落穂拾い」です。

ミレーはパリの南方約60キロのところにある、バルビゾンに移り住み、大地とともに生きる農民の姿を、崇高な宗教的感情を込めて描いた画家として知られますが、その姿勢は農耕民族である私たち日本人の視線を集め、世界の中でも日本はいち早くミレーの作品に関わった国で知られます。また、彼の作品に早い時期に注目し、その後数点も買い入れた国としても知られるのです。

そのひとつが日本がまだ、近代化に程遠い頃、青年将校らが総理大臣の犬養毅を殺害する“五・一五事件”で混乱したその翌年の1933年(昭和8年)に、ミレーの代表作のひとつである「種まく人」が岩波書店のシンボルマークとして採用したことです。

そして、1977年(昭和52年)には、その「種まく人」がサザビーズのオークションで競り落とされ、日本に渡って来ます。もちろん、それは内外に大きな話題を呼びました。

ちなみに「種まく人」の作品は2点ミレーにより制作されていますが、1点はボストン美術館に、もう1点は現在、山梨県甲府市の山梨県立美術館にコレクションされています。

その他、晩年の1871年頃に制作された故郷の海岸の風景を描いた作品「グレヴィルの断崖」は、岡山県倉敷市に建つ大原美術館に展示され、日本のミレーファンを魅了し続けているのです。

ミレーは19歳の時、生まれ故郷グリュシー近くのシェルブールという美しい港町で絵の修業を始めました。そして、22歳の1837年、パリに出て本格的に絵を学ぶのですが、元より絵の才能のあったミレーでしたから、腕はメキメキ上がり、26歳の時、肖像画をサロンに出品し初入選します。

しかし、当時はサロンに入賞しても奨学金はなく、また、彼が描く作品は暗色を遣うことを特徴としていたことで、その暗さで売れることはなく、画家として画壇に認められただけのミレーは貧しい生活を強いられます。

でも、1849年に陽光の照りつけるバルビゾンへ移住してからのはミレーは、自分が自ら求めた新天地ということで作風も明るさを主体にしたものと変わり、翌年、日本が買い入れた「種まく人」をサロンへ出品。その後、彼の代表作となる「晩鐘」「落穂拾い」など多くの傑作を完成させるのです。

それらは誰が見ても今までにない斬新な手法で描かれていたことと、主題が鮮明に描かれていることで印象的な画風となり、賞賛と共に画家として注目を集めるようになってゆきます。

1860年頃からは、そんなミレーを尊敬する人たちが現れ、人気が高まる中、その中の一人だったフレデリック・アルトマンは、彼に四季のシリーズを注文します。ミレーの画家としての頂点を迎えていた頃です。その作品は、ミレーの傑作中の傑作となり、後にドガに大きな影響を与えました。

それでも貧困から抜け出させない日々がしばらく続きますが、晩年を迎える辺りからようやく画壇以外にもその名を知られるようになりはするのですが。

それでも、生活は一向に楽にはならず、常に貧しさとの戦いから解放される気配はありませんでした。ですから、バルビゾンでは農耕にも力を入れ、何とか自給自足の生活までできるように努力をするミレーがいました。

そして、その努力の結果、食べることに不自由がなくなったことで、ゆったりとした時間を持てるようになった、そのことが制作に功を奏し、人間的な温かみが加わった余裕のある画面構成ができるようになってゆくのです。

でも、最後まで画家として眩いほどの脚光を浴びることはなく、1875年、61歳の生涯を終えます。

彼も逝去後、長い間脚光を浴びることのなかった画家の一人でした。でも、生前は画壇で多くの画家たちに影響を与えた印象派の先駆者でしたし、若い画家たちのために生きた画家でもありました。

ちなみに画像の作品は名画と言われ続けて長い歴史がありますが、発表当時は、農地に落ち残った稲穂を拾い集めるという農民の逞しい生活を描いてることで、保守的な批評家たちからは“貧しさを誇張しすぎている”“社会主義的だ”など猛批判を浴びたのです。

新天地バルビゾンに移住してからの最初の作品だっただけに、ミレーの心中は穏やかではなかったはずです。

さぞかし辛かっただろうと思います。でも、彼は自分に負けませんでした。自分の目指した道を進むために、どんな非情な状況下にあっても、自分を見失わないで生きました。

貧しさに屈服せず、夢の世界に逃避もせず、常に現実に立ち向かって生きた画家ミレー。

ですから作品には彼自身の生きた哲学が描かれているのです。

(トラベルライター、作家 市川 昭子)

※筆者は「Gadgetwear」のコラムニストです。