611万余の入場者を集めた第2回ロンドン万国博覧会



ロンドンの地下鉄サウス・ケンジントン駅からハイドパークに向けてExhibition Roadを歩くと、東側にはヴィクトリア&アルバート美術館、西側には、サイエンス・ミュージアム、ロンドン自然史博物館が建ち、カルチャーゾーンとしての風格と壮大さを見せています。

この3つの壮大な建物は、ヴィクトリア&アルバート美術館に命名されているように、名君ヴィクトリア女王の夫アルバート公が企画した1851年に開催の第一回ロンドン万国博覧会の収益で建設されたものなのです。

世界で最初の国際博覧会は大成功を収め、19世紀の一大人気イベントとなりました。また、186,000ポンドという大きな利益を生んだことで、アルバート公の亡き後、ヴィクトリア女王は議会の反対を押し切って、その余剰金で夫の功績を称えるためにこれら3つの建物を建設しました。

それら全ては「アルバートポリス(アルバートの街)」と呼ばれる博覧会会場の南側、ロンドン大学のそばに建っていますが、今現在ではロンドンにとって必要不可欠なものとなり、日々、多くの人々で賑わっています。

■閑話休題:現存する世界最古のスポーツイベントとされ、日本チームも参加して行われるヨットレースの"アメリカズカップ"は第一回ロンドン万国博覧会の記念行事としてに行われたワイト島一周レースが端緒となっています。下記は“”内はウィキペディアの引用"アメリカズカップ"についてです。ご参照ください。

“アメリカズカップ(America's Cup)は、1851年より現在まで続く国際ヨットレース。また、その優勝杯の名。その成立は近代オリンピックより45年、サッカーのワールドカップより79年、全英オープンゴルフよりも9年早く、継続して使用されている世界最古のスポーツトロフィーとして広く一般に認知されている。

1851年、ロンドンで開催された第一回万国博覧会の記念行事としてロイヤル・ヨット・スコードロン(Royal Yacht Squadron)が主催したワイト島一周レースに端を発する。このレースにアメリカからただ1艇参加した「アメリカ」号が優勝し、ビクトリア女王から下賜された銀製の水差し状のカップを自国に持ち帰った。その為、このカップは「アメリカ」号のカップ、すなわち"アメリカズカップ"と呼ばれることとなった”

1862年の博覧会には、日本からの正式な出展はなかったにも関わらず、日本の工芸品が展示されましたが、それは日本使節団のヨーロッパ派遣の手配や現地での面倒を見てくれた英国の初代公使オールコックが自身で集めた日本の品々を出品していたからです。漆器や刀剣といった工芸品だけでなく、当時の日本の日常生活に必須となっていた生活用品、蓑笠や提灯、草履なども展示され、貧素で質実的なこれらは、ヨーロッパの人々には珍しさも手伝って絶賛されましたが、日本使節団にとっては恥じるべき品々だったようで、“かくの如き粗物のみを出せしなり”と嘆いたようです。

余談ですが、ロンドンで見た“Exhibition”を「博覧会」と訳したのはこの使節団に参加していた通訳の福沢諭吉と伝えられています。

こうして1862年のロンドンでの2回目の万国博覧会は、611万余の入場者を集めて11月1日に閉会しますが、日本がはじめて正式に参加した万博は、1873年のウィーン万博とされています。でも、それよりも6年前、1867年のパリの万国博覧会(ExpositionUni verselle)に徳川幕府・薩摩藩・佐賀藩が参加しているのです。

ではなぜパリ万国博が日本初の参加と言われないのか。

それは1873年明治政府が日本としてウィーン万国博に参加していますが、1867年のパリの万国博覧会当時は、まだ日本がひとつの政府にまとまっていないことで、江戸幕府と2つの藩が合同参加だったからです。

一国の政府が初めて正式に参加、と言えない理由がそこにあるのです。

1867年のパリの万国博覧会の出品作品は、陶磁器、漆器、刀剣、屏風、浮世絵などの美術工芸品のほかに、人形、提灯、扇子、布、和紙、さらには農機具や木材などの日用品や原材料も含まれており、ロンドンとは異なって、かなりの数が出品されました。

また、幕府は出展を決めただけでなく、当時14歳の少年であった、将軍慶喜の弟徳川昭武を代表とする使節団をパリに派遣しますが、万博終了後も昭武をヨーロッパに留学させるという目的があったのです。ただ、その計画は大政奉還後、徳川慶喜が失脚ということで、挫折しましたが、その使節団の一員には通訳として福沢諭吉も参加し、なお、その後の日本経済の基盤を築いた渋沢栄一も加わっていたのです。

《註:渋沢栄一は1867年2月、日本が初めて参加したパリ万国博覧会に将軍慶喜の名代としてヨーロッパ派遣を命じられた徳川昭武が率いる使節団の一人に選ばれ、27歳という若さで会計係として渡仏しています。そこで見聞を広め、多くを学んだ渋沢は、帰国してから静岡に隠遁していた徳川慶喜の傍らで、フランスで学んだ株式会社制度を実践するため、また、新政府からの拝借金返済の為、1869年1月(明治2年)、静岡にて商法会所を設立しますが、腕の良い会計士として、また世界の経済に精通していることなどで、大隈重信に説得され10月に大蔵省に入省します。

その後、大蔵官僚として民部省改正掛を率いて改革案の企画立案を行ったり、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わったりし、本領を発揮しました》

《画像は記事で解説しています“ヴィクトリア&アルバート美術館”です。ヴィクトリア女王とアルバート公が基礎を築いたもので、略称「V&A」。現代美術・各国の古美術・工芸・デザインなど多岐にわたる400万点の膨大なコレクションを中心にした国立博物館でロンドンの中心部を成すケンジントンに建っています》

(トラベルライター、作家 市川 昭子)

※筆者は「Gadgetwear」のコラムニストです。