サンタ・クローチェ聖堂の修復に協力した日本人篤志家



画像はフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂の中央部に創られた「中央大礼拝堂」です。

そして、礼拝堂内部に描かれている壮大なフレスコ画はアニョーロ・ガッディにより1380年に完成した『聖十字架物語』です。

この作品はフィレンツェの街の中に幾多もある14世紀の美術品の中で、もっとも重要とされるものとして、内外に知られていましたが、あまりにも長い時の経過を経ているために、10数年前から破損し始めました。

そこで2004年、修復作業をするために日伊共同のプロジェクトチームが組まれ、修復作業が始まりました。

そして、6年後の2010年12月、作業が終了し今の秀麗な姿となったのですが、修復費用は何と2億円余。巨額なものでした。

でも、この費用2億円は、日本の篤志家により拠出されたものであったこと、私はまったく知りませんでした。

そして、その方が東京に住む黒田哲也氏(画家)の寄付であったことと、金沢大学の宮下孝晴治教授(イタリア美術史専攻)を中心にして6年もの間、プロジェクトチームが尽力を捧げ続けたこと。それも存知あげませんでした。

画像の『聖十字架物語』は600年余の経過を経ても、黒田画伯と金沢大学のプロジェクトチームの尽力により、制作当時の鮮やかで憂いある作品としてここにこうして蘇っていますが、この壮麗で秀麗な作品の作者アーニョロ・ガッディ Agnolo Gaddi は、ルネサンス初期の画家の一人で知られ、ヴァザーリの著書の中で、“芸術家としての資質は最高級のもの”と紹介されたほどの優れた画家であることは、日本ではあまり知られていません。

彼はスピネッロ・アレティーノよりも20年ほど遅い1369年にフィレンツェに画家の息子として生まれますが、生まれながらに虚弱な身体だったことで、1396年、僅か30数年で生涯を終えています。

でも、ジョットの右腕として活躍した父親タッデオの息子でしたから、幼い頃から絵画の世界で遊んでいました。それも父親を介してジョットの世界に遊んでいましたから、いつしか彼の影響を強く受け、画家として成長した頃には、ジョットの再来とまで言われ、精緻な筆致で清新な世界を描く名匠として内外に知られるようになったのです。

もちろん、その腕の確かさは誰もが知るところでしたし、創造性の豊かな資質は彫刻家の世界でも、画家としても、また、建築家の世界でも成功し、素晴らしい作品を創りだしました。

彼の芸術家として活躍した期間は、本当に短い間でしたが、このフレスコ画連作「聖十字架物語」はじめ、プラート大聖堂の壁画など多数の傑作を完成させていますし、その精緻な描写と説得力のあるデザイン性に誰もが感銘を受けたのです。

14世紀後半のフィレンツェはペストの流行や経済恐慌などに襲われて深刻な社会不安を募らせていました。でも、混乱を極めたそのさなかフィレンツェでは、サンタ・クローチェ聖堂が仕切るフランチェスコ会とドメニコ会の二大托鉢修道会を中心にした新しい美術活動が始まっていたのです。そして、その中心的な存在が、ジョットの後を継いだといわれるこのアーニョロ・ガッディだったのです。

彼の作品を目の前にすると、ジョットの世界が脳裏をかすめてゆきます。決して、ジョットの世界に相似しているのではないのですが、でも、ジョットの作品のように品のある静謐な描写や優美性を持った聖人たちの動きの中に、慈悲に満ちた世界を見ることができるからです。

それゆえでした。ジョット同様にアーニョロ・ガッディのその創造性の豊かな資質は彫刻家の世界でも、また、画家としても、そして、建築家の世界でも成功し、崇められ、素晴らしい作品を創り出す芸術家としてこのフィレンツェで大成したのです。

そして、精緻な描写と説得力のあるデザイン性に誰もが感銘を受け、常に多くの人を惹き付けてやまなかったのです。

過日、紹介しましたサン・ミニアート・アル・モンテ教会に保存されているアーニョロ・ガッディの作品「聖ジョヴァンニ・グアルベルトと聖ミニアートの逸話」も同じでした。

彼の描く世界は、哀しくなるほど静謐で清らかで、壮麗でしたね。哀しくなるほど素敵でした。

(トラベルライター、作家 市川 昭子)

※筆者は「Gadgetwear」のコラムニストです。