2014/11/24

ショパンの最後の願い Chopin in Paris


画像はショパンのロンドン滞在中のアパート、メイフェアという高級住宅街の一角に構えたショパンの晩年の家です。

部屋に花を飾るのが好きだったショパンは、自分がロンドンから帰るのに合わせて、パリのヴァンドーム広場のアパートにすみれの花束を飾っておいてほしいと友人に頼んだそうです。それは死期を悟ったショパンのたっての願いだったのです…。

ショパンがロンドンから帰国するその時は、既に自分の命の短さを知っていたことで、憧れのパリの家に思い焦がれ、最後の僅かな時間を姉と友人たちと共に過ごすことを望んだのです。

ポーランド出身の前期ロマン派音楽を代表する作曲家フレデリック・フランソワ・ショパン(Frédéric François Chopin)は、1810年、ポーランドのワルシャワで生まれました。

フランス人の父ニコラとポーランド貴族の娘だった母ユスティナの間に生まれた彼は、裕福な家庭の中で大切に育てられ、1816年6歳のときに作曲家でありバイオリニストだったジヴヌィの指導を受け、翌年7歳からピアノを本格的に習い始めます。

ショパンは生まれながらの音楽神童だったのでしょう、その年、7歳で今なお現存する初めての作品「ポロネーズト短調」を作曲し、出版するのです。そして、1818年、僅か8歳でワルシャワで初めての公開演奏を成し遂げました。

その後、その神童ぶりは様々な場所で知られるようになり、演奏活動も各地で行われました。そして、1831年、21歳になったばかりのショパンはウィーンに招かれ、演奏会を開こうとします。

憧れの海外遠征です。海外の演奏も夢でしたから、胸弾ませて演奏旅行に出たのですが、ウィーン到着後、運悪くすぐに11月蜂起が起こってしまいます。ウィーンでは既に反ポーランドの風潮が高まっていました。

《註:以下は“11月蜂起”についてのウィキペディアからの引用文です》
“11月蜂起またはカデット・レボリューション(The Cadet Revolution・士官学校の革命、1830年~1831年)は、ポーランドおよびリトアニアで発生したロシア帝国の支配に対する武装反乱。1830年11月29日、ワルシャワでロシア帝国軍の陸軍士官学校に所属する若い下士官たちが、ピョトル・ヴィソツキに率いられて蜂起したことが発端となった。まもなく、蜂起にはポーランド社会の大部分が参加した。蜂起はいくつかの地域で成功を収めたものの、結局は数の上で圧倒的に優位なイヴァン・パスケヴィチ将軍率いるロシア軍に鎮圧された”

ですから、急きょ、ウィーンでの演奏会を中止。ショパンは身の危険もあってウィーンを去らなければいけなくなります。でも、混乱にある故郷に帰るわけにはゆきません…。随分悩み、考えた末、ショパンはパリ行きを決断します。

ショパンは1831年9月の暮れにパリに到着。このとき既に二度とポーランドに帰国する気持ちはなく、また、大好きなパリでしたから、心を弾ませてパリを永住の地と決断でしたのです。

でも、パリ滞在が長くなればなるほど、貴族的で優雅に過ごしたワルシャワでのそれまでのショパンの生活とは異なり、苦労が多くなり、彼の人生を狂わせてゆきます。

それはパリでの生活は貴族然としていましたから、華麗でしたが、でも、孤立感に襲われた切なく悲しい時間の流れと変わってゆくことを、身で以って感じるようになるからです。

でも、決断したその時はまだそうなるともつゆ知らず、パリに着いてしばらくは今までと変わりのない優雅な時間の中で作曲に専念したりして、過ごします。

そして、1年を経過した1832年2月26日、パリで初めての演奏会を開きます。もちろん、演奏会は好評を博し、ショパンの名前が内外に一気に広まってゆきました。

その後のショパンはベルリオーズはじめリスト、ベッリーニ、ヒラー、メンデルスゾーン、ハイネ、画家のドラクロワなどの多くの芸術家や他の著名人と出会い、交流を深め、音楽家としての名声を大きくしたばかりではなく、名士として各界にその名を馳せます。

また、ショパンの名声を聞いたヨーロッパから集まってきた数多くの弟子にピアノを教えることにより、高額な収入を得るようになったショパンは、社交界に出入りするようにもなりました。

パリでの生活に心身共に余裕ができた1835年、当時、ゲーテ、ベートーヴェンなど多くの著名人が訪れていた温泉地であり高級リゾートで名高いチェコ・ボヘミア西部の町カルロヴィ・ヴァリ(カールスバート)を訪れ、およそ4年間、離れ離れに暮らしていた両親と最後の別れをします。

また、その後、ドレスデンでかつて親交のあったポーランド人貴族ヴォジンスキ伯爵家のマリアと再会するのですが、厳しい時勢を理解していたショパンは、マリアともそれが最後になると思ったのでしょう、かの有名な「別れのワルツ」を持参し、マリアに贈呈したと伝えられています。ショパン25歳のときの作品です。

そして、翌年の1836年、26歳になったショパンは、リストの愛人だったマリー・マリア・ダグー伯爵夫人のサロンでジョルジュ・マリア・サンドを紹介されます。

ショパンにとってサンドとの出逢いはパリに永住を決めたあの日からの定めだったのでしょう、その時はただお互いの紹介で終わったのですが、初対面から2年経過した1838年、28歳になったその日、サンドと再会し、運命の交際が始まるのです。

ショパンはサンドと交際を始めると間もなくして、長い間患っていた結核の症状が悪化。それを機にして良からぬ噂が立つパリを逃れ、サンドの持つマジョルカ島の別荘で結核療養を理由に滞在するようになります。

バツイチで二人の子供も持つサンドでしたから、それはショパンの療養と言いつつも、本当は恋の逃避行なのでは、と囁かれたりしましたが、事実、二人にとっては療養という名目での恋の逃避行であったことに間違いはなく、しばらくは蜜月の日々を送るのです。

でも、常に受け身でいなければいけなかったことで、この恋はショパンにとって厳しいものでありました。

というのも、1833年から1834年にかけて詩人のアルフレッド・ド・ミュッセと、その後医師パジェロなどと離婚してからのサンドは、多くの異性と関係を持つ恋多き女性でしたから、ショパンは常にサンドのご機嫌を伺うような生活だったからでした。

でも、冬はパリ、夏はノアンのサンドの別荘というその生活パターンは1847年、ショパンの36歳の時まで続けられたのです。

そうなのです。サンドの子供のことでの諍いをしたのが原因となり、別れることになるその日まで、8年間も続いたのです。

ショパンにとっては、8年という長い間生きる世界を共有した最愛の人サンドでしたから、その人を失った時の悲しみは深く、また、落ち込みは激しく、その後、そのショックから抜け出せないまま、鬱状態に入ってゆきます。

でも、彼は最後までプライドの高い音楽家でした。ですから、鬱状態であっても演奏への意欲は衰えず、1848年2月26日パリでの最後の演奏会を開いた後、ヴィクトリア女王の御前演奏に招かれ、ロンドンへと旅立って行ったのです。

ロンドンの演奏会も好評でした。ヴィクトリア女王夫妻も同席したウェリントン将軍もたいそう気に入り、豪華な晩さん会を開いてくれたりもしたのですが、その喜びは束の間…。

ショパンはロンドン・フィルハーモニー管弦楽団から共演の依頼を受けたその直後、体調が優れず、ロンドン滞在を僅か半年間で切り上げなければならなくなったのです。そして、同年パリの自宅へ戻ります。

《註:ヴィクトリア女王夫妻の御前演奏会に同席したウェリントン将軍はナポレオン戦争で軍功を重ね、最終的に1815年のワーテルローの戦いでは同い年のナポレオンと会戦し、彼を打ち破った軍人として知られますね。ナポレオン1世に関わった人物がショパンの世界にもいる。そのことに注目したいと思います。》

1848年11月の終わりにショパンはパリへ戻ります。そして、病に蝕まれてゆく身体ゆえでした、ショパンは家族と共に居たいという思いを募らせ、1849年6月、姉のルドヴィカにパリへ出てきてもらう約束を取り付けます。

ヴァンドーム広場12番地にあるアパート(メゾン)は、ロシア大使館が入居していた7部屋を有する高級アパートですから、アパートは賃料が高額でショパンには荷が重かったのですが、ショパンのあまりの気に入りように気持ちがほだされた友人のジェーン・スターリングが、命の短い親友ショパンのためにそれを肩代わりしたと伝えられます。

そして、10月15日になるとショパンの病状は一層深刻となり、1849年10月17日、39歳という若さでパリのメゾン(アパート)の一室で最期を迎えます…。

ロンドン滞在中に姉や友人宛てにメイフェアの雰囲気などを書き送っていたその書簡の中で、ショパンはパリに戻る日のことをこう記しています。

その文面をご紹介して、ショパンについての解説を終わりと致します…。

“パリのヴァンドーム広場に面した私の応接間が匂うようにすみれを一束買ってほしいのです。パリに帰ったとき、少しだけ詩的な気分を味わいたいのです。寝室に向かって通り抜けるほんの一時だけでいいのです…。パリのスミレの香りをほしいのです…”

(トラベルライター、作家 市川 昭子)

※筆者は「Gadgetwear」のコラムニストです。
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