リバティの創設者アーサー・ラセンビィ・リバティは、1843年、英国南東部に広がるバッキンガムシャー州のチェシャムで生まれました。
《註》バッキンガムシャー州は肥沃な農業地を誇る別名“農業州”とも呼ばれ、ヘンリー8世の2番目の妻アン・ブーリンや政治家のウィリアム・ペン、ロスチャイルド家(銀行家)など歴史的人物が多く誕生する州で知られます。
彼は19歳の時、商売の世界を知るために知人の紹介で、ロンドンのリージェント・ストリーにあるファーマーズ・アンド・ロジャーズ商会に就職します。そこで約10年間勤め、商いの基本を覚えた後、リバティは1874年、独立することを決意。31歳になったばかりでしたが、リージェント・ストリート218番地に小さな賃借店舗を開きます。
それは今までお世話になったファーマーズ・アンド・ロジャーズ商会の前でした。何かことが起きた時、支えてくれる相手がほしかったことと、一世一代の大仕事でしたから、知り慣れた地で、また、知り慣れた場所でスタートしたかったのです。
開店当時の店員は16歳の少女と日本人の少年だけだったと伝えられます。
そして、翌年、店内の商品が日本からの輸入品や東洋の装飾品、ファブリック、美術品などが主流をなすようになると顧客が増え、その半年後には、隣接していた残り半分の売り場も賃借し、売り場面積を開店当時の2倍の広さに広げます。
事業が拡大するにつれ、近隣の物件も買い入れ、リバティ店として拡張されてゆくのですが同時に、扱う商品も多種類となり、それまで中心となっていた日本の製品の他に、ジャワやインド、インドネシアなど、アジアを主とした様々な地域から製品の調達をしてゆきます。
それは多くの商品が必要、ということだけではなく、創業当初から主流製品にしていた日本の製品はあまりにも繊細すぎて、時間の経過と共に質が低下してしまうことを悩んでいたのです。
ですから、アジア圏の中の幾つかの国を選んで輸入するのですが、やはりいずれも繊細すぎたためあきらめ、国内で東洋風のファブリックの生産を試みることになります。
そして、悩みながらも、試行錯誤して完成をみたファブリック。これがひとつの転機となり、禍が福に転じるようにしてリバティに大きな成果をもたらすのです。
というのも日本を愛したアーサーの夢を製品として完成させた衣類と調度品のファブリックは、どこにもないエキゾチックなデザインとなり、また、今までにない斬新な色遣いが評判となり、リバティ店はロンドンでも最もおしゃれな店舗へと変身してゆくのです。
次第に顧客には外国人も多くなり、その中にはロセッティやレイトン、バーン-ジョーンズなど、ラファエル前派に属する有名なアーチストもいたことで、マスコミにも取り上げられました。また、リバティと交流のあったデザイナーの多くが、1890年代にはアーツ・アンド・クラフツ運動やアールヌーボーにおける中心的存在となる人たちばかりでしたから、話題には事欠きませんでした。
その上、リバティはこれらのデザイナーたちをバックアップすることで、アールヌーボーの発展にも貢献し、英国での存在感を大きく示していったのです。
1917年、創業者アーサー・リバティが亡くなります。
大きな星を失ったリバティでした。でも、後継者として会社を継いだ息子はじめスタッフたちが一丸となり、残したものを守るだけではなく、夢半ばに逝去したアーサー・リバティの遺志を継いで、1920年代に入ると店は一気に拡張。
2軒のチューダー・ハウスを建設し、創業者であり父であるアーサー・リバティの長年の夢を叶えます。
また、アーサー・リバティは、お客様が来店したときに自分の家の中にいるような気分を味わってもらいたいと考えていたため、吹き抜けにした2軒のチューダー・ハウスの各々に小さな部屋を作り、部屋には暖炉も取りつけて、家庭的な雰囲気を演出しました。
もちろん、各部屋にはエキゾチックなラグやキルトを飾って心地よい空間をつくり、小さな部屋毎に小物をディスプレイしたりして、まるで自分の家のような安らぎの空間を創ったのです。つまり、今で言う“モデル・ハウス”のような部屋を創ったのです。
その画期的な戦略は当たりました。自分たちの部屋も同じようにしたい、という思いをお客さんに募らせたのです。
結果、リバティ店のテキスタイル部門は大きく成長。
テキスタイル部門を充実させた1930年には、現代風の華やかな雰囲気を備え、シンプルなラインの細かいデザインのプリントを取り入れた“リバティプリント”が完成します。
もちろん、既に空の星となっているアーサー・リバティでしたが、彼の残していった戦略はここでも大成功。“リバティプリント”は販売と同時に大きな反響を呼び、以来、現在までリバティのベスト・セラーであり、リバティの顔となるのです。
そして、世界中の注目を集めたことで、1939年には、リバティプリントに対する需要に応えるため、リバティ・オブ・ロンドン・プリンツという名の卸売り会社を設立し飛躍してゆきます。
アーサー・リバティのリージェント・ストリートの小さな店で販売する最初の商品は、日本から輸入した東洋の絹でした。最初に雇い入れた少年も日本人でした…。
英国の老舗リバティと我が国とはこんなにも深いつながりがあったこと、うれしいですね。
そして、英国と日本の素晴らしい関係、素敵です…。
(トラベルライター、作家 市川 昭子)
※筆者は「Gadgetwear」のコラムニストです。