画像はベルギー・ブリュッセルの「王立美術館」に展示されていますアンリ・マティス Henri Matisse の晩年の作品「ヴェニスの赤い室内」です。
アンリ・マティスは1869年12月31日に生まれ、法律家を目指して日々勉学に勤しんでいましたが、1890年、21歳のとき虫垂炎にかかり入院。
入院生活が長く続いたこともあって、自分を今一度、見つめる時間を得たのでしょう、以前から興味を持ち、独学ながら絵を描いていたマティスは、ベッドの上で様々な画集を見る内、絵画の世界の魅力の大きさを改めて知り、一念発起、画家として生きることを決心するのです。
そして、退院した後、当時エコール・デ・ボザール(官立美術学校)の教授であり、当時、フォーヴィスムの画家たちの指導者であったギュスターヴ・モローの門を叩き、そこで本格的に絵画を学びます。
そして、僅かな時間の流れでしたが、その流れの中で幻想的な作風と想像と幽玄の世界を描いて人々を魅了していたモローと、写実的な作風を得意とした自分とは根本的に描く世界の異なることに気がつきます。
でも、マティスはモローの作風が嫌いではなく、彼の元で学ぶことは自分が画家として生きるための肥やしになっていることを知っていましたから、モローからすぐには離れず、彼の元で画家としての修業をしながら、当時活躍していたファン・ゴッホやポール・ゴーギャンらの作品を極力見に行くよう努力をしました。
そして、その甲斐があり、根底にモローの世界をイメージしながら、自由な色彩による絵画表現を追究するようになります。そして、そこからマティス独自の世界を創り上げてゆくのです。
1900年に入ったばかりのこの頃が、マティスの画家としての開眼の頃でした。創り上げたその画風は独創性に富み、また、斬新さと共に説得力あふれたものとなり、その後、観る者誰もを惹きつける画風を創り出していったのです。
マティスの持ち味とも言える自由さを表現した最高傑作と言われるのは、30歳半ば頃の作品『緑のすじのあるマティス夫人の肖像』(1905年)、『ダンスⅡ』(1910年)などですが、この2作品は大胆な色彩を特徴とし、前期マティスの代表作となります。
そして、その頃のマティスは、野獣派と呼ばれた若かりし頃の自分を思い出すのも嫌だと言い、友人に「私は人々を癒す肘掛け椅子のような絵を描きたい」と常々言っていたと伝えられます。
でも、パリの美術館収蔵の「ダンス」はじめエルミタージュ美術館に収蔵されている「音楽とダンス」に象徴されるように、赤と黄と黒という色遣いを主とした中で、思う存分自分のエスプリ(才気・知性)を漂わせて“生きる歓び”を表現した彼の作品に魅了されるのです。
それは同じエスプリでも歓びの中に自分の心の働きを表現し“生きる悲哀”を訴えて踊っているように見えるからです。
でも、それはマティスは“生きる歓びは生への悲哀を胸に秘めて初めて感じるものだ”という持論をいつも大切にしていたことを知っている者だけに見えるのかもしれません。
人としてこの世に生を受けたその日から、辛いことも苦しいことも耐えて、生きると言う使命を果たさなければならない。それが人間としての務めだから。
そういう理論の元で生きた画家マティスを知っているからですね。
ちなみに「ダンスⅡ」はロシアの貿易商セルゲイ・シチューキンの注文で完成したものですが、シチューキンは作品を見て、大胆過ぎると嫌い、描き直すように求めます。
でも、マティスはそれを拒否。結局依頼主が折れて商談は成立します(現在はエルミタージュ美術館に収蔵されています)。
また、同年、サロン・ドートンヌにも出品した作品「ダンスⅡ」ですが、まずは裸での群舞という題材にパリ市民は衝撃を受け、でも、すぐにマティスがこだわった“赤色の表現力”に惹かれます。
そして、赤色の美しさを引き出すために事物も空間も平面化して簡素化し、赤一色で描いた作品であることに気づき、再び驚くのです。
もちろん、「ダンスⅡ」はその後に極めて高い評価を得た作品となり、今に至っているのです。
《註》サロン・ドートンヌとは“秋の展覧会”を意味し、現在もパリの市内で秋に開催されていますが、国民美術協会の“サロン”に対抗してサマリテーヌ百貨店をパトロンとし、1903年にマティス、ルオー、ジュルダン、ヴィヤール、マルケ、ボナールなどの参加によってグループ化された美術展覧会のことを指します。
晩年は手足の自由が効かなくなったマティスでしたが、それでもなお線の単純化、色彩の純化を追求し続けました。そして、追求して得た世界を南仏ヴァンスのドミニコ会修道院ロザリオ礼拝堂の内装デザインなどを切り紙絵として制作し、完成させます。
そして、激痛に耐えながら完成した作品を目にしたマティスは、生きるという使命と画家としての任務を果たしたかのように、1954年11月3日、85年の生涯を終えます。
マティスにとって「ダンス」は、色彩のシンプルさを見つめたかった作品だったかもしれませんが、シンプルなだけにそこには悲哀の世界が広がります。
“生きるために必要な人間の悲哀”…。この作家に出会って初めて知り考えさせられた世界でした。
(トラベルライター、作家 市川 昭子)
※筆者は「Gadgetwear」のコラムニストです。