キュービズムの名前の由来 Cubism & Paul Cézanne



キュービズムは20世紀初め(1907~1914年頃)にパブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックによって創始された新しい現代美術のジャンルとして知られますが、その手法を語る場合、定義なるものはどのようなものなのかを知る必要があると思いますので、簡単に触れてみたいと思います。皆さんが良くご存じの印象派の定義も明記しますので、参考になさって下さい。

(1)印象派手法=印象派の画家たちは、例えば自然の中に立ち、ある一つの視点(または物体)に基づいて画布に向かって景観を目に映るままに遠近法を用いて描く。

(2)キュービズム手法=いろいろな角度から見た物の形を一つの画面に収め、ルネサンス以来の一点透視図法を否定した画法。

三省堂の大辞林に明記されているキュービズムは「二〇世紀初め、ピカソ・ブラックによってフランスに興った芸術運動。対象を基本的な構成要素に分解し、それを再構成することによって、形態の新しい結合、理知的な空間形成をめざした。抽象美術の母胎となり、造形の各分野に大きな影響を及ぼした」とあります。

理屈としては理解できますが、でも、どうしてそのような新手法を編み出し、その画法で描くことに執心したのか…。

ピカソは1900年代に入った頃、キュービズムの世界に入る前でしたが、アフリカの芸術にしばし目を奪われていました。そして、カラフルでデフォルメされた顔つきの仮面やトーテンポールに魅入られ、しばし、アフリカの芸術の世界に身を託しました。そして、その中で自分なりの表現方法を模索したのです。

アフリカの美術作品は自然主義とは異なり、視覚的抽象の世界でしたからピカソの今までの形式の革新と創造を促したと思います。それはピカソだけではなく、赤の色遣いを哀しげに表現したマティスもアフリカ芸術・美術に拘った一人でしたし、その後、モディリアーニやゴーギャンといった画家たちまでもが、アフリカ美術の世界に魅了され、自分独自の表現のための新しい形態の探求の中にいました。

彼ら20世紀初頭のヨーロッパの芸術家たちの多くが、アフリカ美術に心を奪われたのは、複雑な世界を単純さに変えるためのデフォルメこそが、古き因習を破ることができる。そう思っていたからではないのでしょうか。

ですから、ピカソは1907年、その中で自分の進むべき道を見つけました。そして、単純化されたアフリカ美術の域の中で、ピカソ自身の世界を構築したのがキュービズムという画法であり、その新画法の船出としてアフリカのエキスを入れ込んだ「アビニヨンの娘たち」を同年秋に完成させます。

また、ピカソを敬うブラックは、ピカソに続かんと1908年、「大きな裸婦」(これは“アヴィニョンの娘たち”を見て触発されて描いた一点です)を完成させ、その後、セザンヌゆかりの地、エスタック地方に出向き、セザンヌ的キュービズムと言われる「エスタックの家」など7点の風景画を描きます。

そして、ブラックが描いたそのエスタックの絵を友人のマティスが見て「これらの絵はどれもキューブ(立方体)だ」と言った言葉がそのまま手法の名前となり、キュービスムという名前が誕生したのです。

話は元に戻ります。

なぜブラックはセザンヌの作品にこだわりを見せるのか。

それは先に紹介しましたように19世紀末期には、既にセザンヌという印象派画家がその世界に生きていたからでした。それをブラックは周知していたのです。

そして、ブラックとピカソの二人は長い道のりを超えて、また、セザンヌという先輩を通して、各々異なる見地からキュービズムという世界に生き、最終的には1909年、二人のキュービズムがひとつに重なったのです。

二人の間には紆余曲折もあったようですが、でも、異なる思いでも同じ舞台であったことは当初から分かっていたことですから、二人は最後まで手を取り合い、キュービズムの発展に寄与したと伝えられます。

キュービズムはセザンヌの言葉からしても、彼の世界から発信されたものと思っています。

“でも、目の前の景色はトランプのカードみたいなのです。蒼い海に赤い屋根の家があって…。太陽はここでは恐ろしく強烈で、描こうとするものがすべてシルエットとなって、形を正確に見ることは不可能に近いのです。白とか赤とか緑のとか…。とにかくこれは、肉付の正反対の極のように感じるのです”

と言ったセザンヌのその言葉にキュービズムの世界は既にあったのです。

そして、アフリカ美術を根拠とするピカソの“視覚的抽象の世界”を探究した道と1904年の「自然を円筒、球、円錐によって扱いなさい」というセザンヌが提唱し、見出したこの手法を自分の身の内に消化した後、自分の手法として創生したブラックにより、キュービズムは帰結した。そう思っています。

写真はアントワープに生まれ、ブリュッセルのアカデミー・デ・ボザールで学んだジュル・シュメルツィゴクの1917年の作品「フランシス・デルベック男爵」です。彼も先に紹介しましたフロスペース・ド・トロイエ同様に、キュービズム的発想で生まれた立体主義を唱える画家で、ベルギーの現代美術の先駆けとも言われた人物です。作品はブリュッセルの王立美術館“20世紀の部屋”に展示されています。

(トラベルライター、作家 市川 昭子)

※筆者は「Gadgetwear」のコラムニストです。