2014/06/23

ジャポニスムと晩年のゴッホ


ローマ国立近代美術館一階の十九世紀美術が展示されているコーナーには、ジャポニスムの潮流に乗ったモネ、ドガ、セザンヌなどの印象派の作品が並んでいますが、画像はその中の一点、ゴッホの『農夫』シリーズの一枚です。

この作品はゴッホがサン・レミなどを経由し、1890年5月20日からパリ北西イル・ド・フランスのセーヌ河畔に広がる小さな村、オーヴェール・シュル・オワーズに移ってから間もなくの頃のものとされています。

でも、彼の作品としては画面全体、明るい雰囲気に包まれていますし、今まで見たことのないような明るい表情の“農夫”が描かれていますね。

また、その明るさはゴッホのものとしては大変珍しく、観た者誰もが首をかしげ不思議がったと伝えられます。

でも、当時、このような作品をゴッホに描かせた理由があったのです。

それは新天地に選んだ村に友人であり美術愛好者でもある精神科医のポール・ガシェがいたからだろうと推測されています。

それは推測の域を脱しませんが、ただ、その頃のゴッホについて語る前に、作品の背景となっているオーヴェール・シュル・オワーズという村について、少し触れなければいけませんね。

多くの人がゴッホの壮絶に終えた生涯をご存じだと思いますが、この地は盟友ゴーギャンとの諍いの後、精神的に不安定となったゴッホが、友が去った寂しさと後悔の中、耳切り事件を起こしてしまい(ゴッホ自らが耳を切り落としたということでしたが、近年の研究で、ゴーギャンにより切り落とされたのではないか…。という説が浮上しています)、傷つき哀しみ悔んだ後、二人で住んだ“黄色の家”を捨て、1889年、一旦はサン・レミのカトリック精神病院に入院し、比較的自由な生活を送った後、1890年、このオーヴェール・シュル・オワーズに自ら希望して赴いた地なのです。

傷ついた自分の心を信頼できる精神科医の友人のもとで治療・療養生活を過ごしたいと願っての赴きだったことで、ゴッホにとって村は安息の地になったはずですし、事実、ゴッホはポール・ガシェの治療後はいつだって尋常で普通の精神でいることができたのです。静かに落ち着いて時間を過ごすことも可能になったのです。

ですから赴いて間もなくして安らぎのある時間を持つことができたゴッホは、このように明るい太陽の下でほほ笑みを浮かべている農夫を描くことができたのかもしれません。

ゴッホの作品の中では非常に珍しい“笑顔”です。もしかして唯一の笑顔の農夫なのかもしれません。いいえ、農夫だけではなく、笑顔の人物はこの作品だけかもしれないのです。

それだけに精神を病んでいた彼の痛々しさがこの作品に見ることができるのです。

でも、優しい笑顔を描いたゴッホはこの時、病んでいました。心をとてもひどく病んでいたのです…。

ですから、彼はもっとも信頼できる友人の医師ポール・ガシェの元に来たのです。彼に自分の苦しみを訴え、悲しみを知ってもらう…。それだけでゴッホは良かったのです。生きる苦しみを知ってほしい、それだけでこの地に来たのですから…。

一人でも今の自分を理解してくれる人がいたからこそ、この時まで生きることができた…。それだけで彼は良かったのです。ですから、この後、しばらくの間、静かな時間の中に生きますが、村に来て僅か2ヶ月後の7月27日、胸部にピストルを撃ち込み自殺を図ります。

そして、29日駆けつけた弟テオに見守られながら37歳の生涯を終えるのです。また、弟テオも兄の後を追うようにして翌年、天国へ旅立ちます…。

☆コラム☆《ゴッホとジャポニズム》

《ゴッホがジャポニズムに傾倒するようになったのは、他の画家たちと同様にパリ万国博覧会へ出品をした日本美術である浮世絵、琳派、工芸品などに注目したことがきっかけでした。その後、パリ在住中にプロヴァンス通りにあるサミュエル・ビングの店で多くの日本版画を買い集めたりして、日本の芸術を学び、1887年の「タンギー爺さん」の肖像画の背景の壁にいくつかの浮世絵を描き込んでいるほか、渓斎英泉の「雲龍打掛の花魁」、歌川広重の名所江戸百景「亀戸梅屋舗」と「大はし あたけの夕立」を模写した油絵を制作しています。

“また、この頃、ジャポニズムはオリエンタリズム(東洋趣味)から生じた社会変革への道標となったのですが、パリの画壇では19世紀後半にはそれまでの写実主義が拒まれ、ドガやマネたちが提唱する印象主義が台頭し、それも早い速度でヨーロッパに波及してゆきました。しかし、それもすぐさま抽象主義などの幾つかの主義に影が薄くなり、最終的にジャポニズムという大きな波に飲み込まれてゆくのです。

“そして、ゴッホも他の画家たちと同様にその波に乗ったのでした。晩年に近く、パリでの最後の作品の多くがジャポニズムに染まった作品群でした…》

《註》ジャポニスム(仏: Japonisme)また、ジャポニズム(英: Japonism)とは19世紀中頃のパリ万国博覧会へ出品をした日本美術である浮世絵、琳派、工芸品などが注目され、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、それらの日本の美術工芸品が、西洋の美術、工芸、装飾などの幅広い分野に影響を与え、また、印象派やアール・ヌーヴォーの作家たちに多大な影響を与えた現象を指します。

1853年、ベルギー国境近郊のオランダ北ブラバンド地方フロート・ツンデルトで牧師一家の子供として生まれたフィンセント・ファン・ゴッホVincent van Gogh。成人してから精神の病で数々の不祥事を起こしながらも、そして、家族に見捨てられながらも、3歳年下の弟テオだけには愛されていることを支えにして、画家の道を歩みました。

でも、彼は盟友との別れをした後は、最期までテオとだけの世界に生きるしかなかった薄倖の画家でした。そして、寂しき人生を生きざるを得なかった天才画家でもありました。

私事ですが私はゴッホの生まれたオランダの小さな村と彼の生きたアルル、そして、ゴッホとテオが並んで眠るオーヴェール・シュル・オワーズの丘の上の墓所を訪れ、彼の歩んだ足跡を辿りました。オランダには朽ちて壊れそうな生家が残っていましたが、彼が幼い頃にテオたちと遊んだ庭は今も緑爽やかでした。

そして、パリのモンマルトルには未だ彼が住んだアパルトマンが残されていますし、アルルには彼の作品と同じ情景が今もそのままに見ることができます。お気に入りだったカフェも現存です。

そして、最期を迎えた麦畑と墓所…。緑に囲まれた小さな墓所でしたが、そこに愛する弟テオと並んで眠るゴッホがいました。日当たりの良い丘の上の、でもとっても小さな墓所でしたが、二度と離れることのない愛する弟テオに安心したのでしょう、ゴッホは安らかに眠っていました。優しい安息の中で眠っていました…。

私はとても安堵しました。私がずっと逢いたかった人でしたし、ずっと気になっていた作家でしたから。

ですから、私はそこでゴッホと会話を交わしました。長い時間話していた気がします…。

ようやく逢えた人ですから…。

改めて、墓所と共にゴッホを語りたいと思います。

《パリでゴッホが通った“サミュエル・ビングの店“の店主について・ウィキペディアからの引用です》

“サミュエル・ビング(Samuel Bing, 本名 Siegfried Bing, 1838年~1905年)はパリで美術商を営んだドイツ人。日本の美術・芸術を欧米諸国に広く紹介したことと、アール・ヌーヴォーに造詣が深いことで有名。父親からビジネスの訓練を受け、普仏戦争後に日本美術を扱う貿易商となり、1870年代にパリに日本の工芸品を扱う店をオープンして成功する。日本を訪れた後に古いものから近代のものまで幅広く扱うようになる。1888年より91年まで「芸術の日本」(Le Japon artistique)という月刊誌を40冊発行し、展覧会も企画。1895年にパリにおいて、「アール・ヌーヴォーの店」(Maison de l' Art Nouveau)の名で画商店を開いた”

(トラベルライター、作家 市川 昭子)

※筆者は「Gadgetwear」のコラムニストです。
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