ターナーを展示する近代美術館テート・ブリテン Tate Britain in London



写真はロンドンのテムズ川畔、ミルバンク地区に建つ国立美術館テート・ブリテン Tate Britainです。

テート・ブリテンはテート・モダン美術館とともに、テート・リヴァプール、テート・セント・アイヴスなどとロンドンの国立美術館ネットワーク「テート」の一部をなしているもので、建物は1897年にミルバンク監獄の跡地に建設されました。

この美術館が開かれるまでには、紆余曲折がありました。館の創設が必要となった動機と当初、館の中に収める美術品がどんな道のりを経て、ここまで来たのか、そこから解説を始めたいと思います。

リバプールで生まれ育ったヘンリー・テート henry tate は、1859年、35歳になったある日、ジョン・ライト・アンド・カンパニーの砂糖精製所のパートナーとなりました。テートとパートナーとなった直後から、相棒ジョンを呆れさすほど、カンパニーは発展。

テートの商才には並々ならぬものがあったことで、ジョンは自分の影が薄くなったことを機に、1869年、テートに精製所のすべてを任せます。

精製所を買い取ったテートは、社名をヘンリーテート・アンド・サンズと変更。精製所の社長となり、それまで以上に仕事に励みます。そして、1872年、念願だった紅茶用の角砂糖を作ることに成功します。もちろん、特許を取り、それをバネにしてビジネス街道を驀進するのです。

砂糖精製でビジネスを成功させたテートでしたが、彼はそこで立ち止まることはなく、1877年、先ゆき、油の需要が大幅に増えると見込み、今度は製油所を開設します。でも、それは単なる製油所ではなかったのです。

というのも先に成功させた砂糖精製の事業ですが、そこで労働者の日々を見てきたテートは、働くだけの日常生活を懸念し、彼らのレクリエーションのためにバーやダンスホールを製油所の向かい側に併設したのです。

そうした付帯設備を設けたことで、労働者たちに働く意欲を持たせたばかりではなく、一般の客を取り込むことにも成功するのです。結果的にテートは大きな利益を出し、急速に億万長者になってゆきました。

でも、彼は自分だけが裕福な生活をして満足する人ではなかったのです。自分の会社で働く労働者を気遣ったように、貧困層に生きる人々も気遣い、いつも匿名で慈善団体に寄付をしていました。

それだけではありません。何と1889年には政府に現代絵画の彼のコレクション65点を寄贈し、その上、自分の名画の寄贈に伴って、それを展示する館の心配をして、£80,000もの大金を政府に寄付したのです。

それがこの美術館の創設の直接の理由となったのですが、政府は当初、テートの寄付金と寄贈品を元にして、ナショナル・ギャラリーの所蔵する英国絵画を中心に1897年ナショナルギャラリーの分館として「ナショナル・ギャラリー・オブ・ブリティッシュ・アート」を開設しました。

でも、時間の経過と共に英国内の作品だけではなく、世界の近代・現代美術を扱うようになったことで、1955年からはナショナル・ギャラリーの分館としてではなく、独自の組織とし、テートの寄贈品を主に英国内だけの作品を展示する「テート・ギャラリー」を創設します。

そして、2000年にサウス・バンクに近現代美術専用の分館テート・モダンが開館すると、翌年の2001年、大改修を終えた「テート・ギャラリー」が「テート・ブリテン」と名称を変え再開館します。

テート・ブリテンは、1500年代のテューダー朝美術以降、現代に至るまでの、絵画を中心とした英国美術を時代順に展示していますが、ウィリアム・ブレイク、ジョン・コンスタブル、トマス・ゲインズバラ、ウィリアム・ホガース、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、そして、かの有名な「オフィーリア」の作者ジョン・エヴァレット・ミレイなどラファエル前派の錚々たるメンバーの作品が一堂に揃い、近代画のファンには見逃せない美術館となって人気を博しています。

また、クロア・ギャラリーにはターナーの初期から晩年までの作品が展示され、連日、ターナーファンでにぎわいを見せています。

テムズ川を挟んだ対岸には、「バンクサイド発電所」を利用して開設したテート・モダンが建ちます。2つの館はテムズ川を行き交う高速船「Tate to Tate service」がシャトル運航してもいるのです。

ロンドンを訪れたら、1日、美術館巡りをしてみませんか。テムズ河畔の爽やかな風の中で、ターナーやミレイ、ロセッティの作品に酔いしれるのも一考です。素敵ですから・・・。

(トラベルライター、作家 市川 昭子)

※筆者は「Gadgetwear」のコラムニストです。