英国が誇る小説家アーサー・コナン・ドイル(Sir Arthur Conan Doyle)は、エドガー・アラン・ポーと共に現代の推理小説の生みの親とされていますが、それは彼の作品に登場する“シャーロック・ホームズ Sherlock Holmes”が、19世紀から20世紀にかけて発表した推理小説の中で、圧倒的な人気を誇り、他のあらゆる作品に登場する名探偵たちの元祖的存在とされているからです。
もちろん、日本でも誰もが知る作家であり名作シリーズです。
その偉大なる作家アーサー・コナン・ドイルは、1859年、スコットランドの首都・エディンバラで生まれます。生粋の英国人であることを常に誇っていた役人の父親とアイルランド人の母親の間に生まれましたが、父方には著名な風刺画家だった祖父のジョンと、イラストレーターでその名を知られた伯父のリチャード・ドイルがいました。また、父方の兄弟には芸術関係の職につくものが多く、芸術一族で知られていましたが、アーサー・コナンはその中の誰の血筋も引くことはなく、17歳から5年間、エディンバラ大学で医学を学ぶのでした。
この間、外科医の助手としてアルバイトをしていたアーサー・コナンでしたから、他の生徒よりも医学の知識とその経験は多く、いずれ医師として活躍するだろうと誰もが思っていました。
この頃は同時に文学にも興味を示し、古典文学はじめエドガー・アラン・ポーの作品を愛読したと伝えられます。
でも、厳格な性格と固い職業役人だった父親の重圧と、仕事の重責からくるストレスが溜り、その苛立ちのはけ口を見つけられず、彼が医学生になって2年ほど経過した頃、ついにアルコール依存症に陥ります・・・。
アルコール依存症は最終的に自力で治癒できずに精神病院に入院します。
でも、一家の担い手であったことから稼ぎ手を失ったドイル家の心配から解放されず、家族の存在が重圧ではありましたが、、父親のあまりの落胆ぶりにアーサー・コナンは申し訳なさでいっぱいになり、数ヶ月を経過したある日、自己診断で精神が安定し、アルコールからも解放されたと見なし、担当医に早期の退院を願いでます。
退院の許可を待つ間、アーサー・コナンは退院した後、医学の世界から離れずに生活費を稼ぐ方法を思案します。
というのも入院する前の外科医の助手だけの収入では、自分の学費は元より、弟妹の多い一家の家計を支えるには無理があることを承知していましたから、最低限必要な金額を試算し、それに見合う仕事を探さなければならなかったのです。
懸命に考え、探しました。そして、見つけたのが北氷洋行きの捕鯨船の船医という仕事でした。休みはなく、気の休まることのない仕事でしたが、アルコールに浸る余裕のない仕事でしたし、金銭的な見返りは大きく、船医を1年間続けたことで当分の学費と生活費を捻出したのです。
そんな事情で医学部を他の生徒より1年長く、5年という歳月を掛けて卒業したアーサーは、その後、医師として再び船に乗ったり、友人と共同で開業したりして、医者としての道を歩んではいたのですが、でも、世の中、甘くはありません。
経営分野には疎いアーサーは、開業医として一度も繁盛することなく医者としての道が閉ざされます。
でも、医学の道を諦めきれなかった彼は1882年、23歳の時、再びポーツマス市でそれまでの一般的な診療ではなく眼科を専門とする診療所を開きます。今度は満を持して周到な準備で始めました。
でも、やはり世の中甘くはなく、一人もこない日もあったりして、開業してからの患者は数えるほどでした。
ところが患者が皆無に近い、そのことがドイルの人生を良い方向に狂わせることとなるのです。
それはいつやってくるかわからない患者を待ちながら、暇つぶしに診療所で小説を書き始めたことに端を発します。もちろん、書くだけではなく完結するとその作品を雑誌社へ送ったりしました。何せ暇ですから、完成させては送るという繰り返しを2年ほど続けるのですが、いずれも色よい返事はなく返却されてきたのですが。
ところが1884年、突然でした。何の前触れもなく奇跡が起こったのです。
そうなのです。何も期待せずに、でも、もう癖にもなっていた雑誌社への原稿送りでしたから、いつも通り、乗組員失踪事件に基づいて書いた短編小説「J・ハバクック・ジェフソンの証言」を雑誌社へ送ったところ、“コーンヒル・マガジン”1月号に匿名で掲載されていたのです。しかも、それが読者の間で評判になっていたという奇跡が起きていたのです。
アーサー・コナンは自らの手で“災いを福とした”のです。
もちろん、その後は診療所を閉め、書くことに専念。以前同様に雑誌社に投稿を続けます。
そして、彼が28歳になった1887年のクリスマス、それまで温めていた作品「緋色の研究」を完成させ、シャーロック・ホームズシリーズの最初の一冊として出版したのです。
1887年、28歳から小説家としての道を本格的に歩みだしたアーサー・コナン。その一生の中でシャーロック・ホームズ探偵を主役にした作品56の短編と4つの長編を完成・出版することになるのですが、その間、シャーロック・ホームズの描き方があまりに真実味を帯びていたため、読者は物語の世界と現実のアーサーの生活が重なり、アーサー・コナン自身が名探偵と思い込むこともあり、実際の事件の捜査がアーサー・コナンの元へ持ち込まれたりもしたようです。
また、自分が生みだしたとはいえ、シャーロック・ホームズの人気の大きさに辟易とし、あるとき母親に“いっそのこと彼を殺してこの狂騒から逃げ出したい”などと書いた手紙を送ったりもしました。
アーサーはシリーズを書き始めてから約30年後に「ストランド・マガジン」1917年9月号に最終作として「最後の挨拶」を発表し、その中でシャーロック・ホームズは探偵の世界から引退した事としてシリーズに自ら幕を降ろしたのです。
アーサー・コナンは自分が創りだしたとはいえ、作中の主人公シャーロック・ホームズがあまりにも魅力的だったことで、最終的にはその人物に振り回わされ、疲労困憊して最終作を書いたと伝えられます。
1930年7月7日、71歳の生涯を終えたアーサー・コナン・・・。晩年はなぜか政治活動に力を入れ、20世紀初頭にはエディンバラとボーダー・バラズの議員にそれぞれ立候補したりしましたが、でも、彼が亡くなって十数年を経過したある日、1948年、短編の遺稿が見つかり、彼が最期まで書き続けたこと作家であることを立証しました・・・。
写真は今でも現存した探偵と信じている?シャーロキアンと呼ばれるシャーロック・ホームズファンの一人です。
(トラベルライター、作家 市川 昭子)
※筆者は「Gadgetwear」のコラムニストです。 本稿は筆者の個人的な見解です。