「レ・ミゼラブル」や「ノートルダム・ド・パリ」で知られるフランスの作家ヴィクトル・ユゴー。彼は社会派作家として知られ、19世紀末期には社会的平等、民主主義と死刑廃止のために懸命に働いた政治家でもありました。そのため、反政府主義者として自国を追われる身となり、ベルギーの首都ブリュッセルに亡命をします。
19世紀半ばのブリュッセルは、フランス第二共和政の大統領ルイ・ナポレオンの「権威帝政」と呼ばれる強圧的な統治による反発が多く、権威と衝突した作家や知識人のための避難所の街と知られていました。
ですからカールマルクスはじめムルタトュなど多くの自由主義者たちがこの街に身を置いたのですが、ヴィクトル・ユゴーもそれに倣うかのようにブリュッセルを亡命先に選んだのです。
ヴィクトル・ユゴー Victor Marie Hugo(1802年2月26日~1885年5月22日)は、フランス第二共和政時代の政治家としても生きたフランス・ロマン主義の詩人であり小説家でした。
また、政治的に主主張が異なる父と母の不和により、父親が出奔。母子家庭となったことでマザーコンプレックスが非常に強いと囁かれた作家でもあったのですが、その兆候は青春時に見染めたアデールとの結婚に象徴されていました。
というのも、相手の幼なじみの女性が気に入らないという母親の反対で結婚をやむなくあきらめます。でも、母親の死後、チャンス到来とばかり、1822年の秋サン・シュルピス教会で許嫁アデール・フーシェと結婚するのです。
とはいうものの結婚したのはユゴーが20才の時です。母親に結婚の許しを得ようと頑張った頃はまだ10代でしたから、親の反対に遭うのも無理はなかったかもしれません。
それに僅か20歳で家庭を持ったユゴーでしたが、若さゆえだったのでしょう、しばらくは幸せな結婚生活を送るのですが、その後、息子の死や妻の不倫という事件に巻き込まれ、自分を見失うほどの苦しみの毎日を送ることになるのです。
なかでも次兄ウジェーヌが自分の妻アデールを愛したがために発狂してしまい、入院先のシャラントン精神病院で自殺するという事故はユゴーを苦しめ、長い間、私生活は波乱万丈、悲しい日々を送ったのです・・・。
その反面、作家としての道は順風満帆。執筆するすべてのものが評判となりレジオンドヌール勲章を受賞したり、38歳になった1840年1月には文芸家協会長に指名されたりするのです。
そして、50歳になろうとする頃、政治に興味を持ち始め共和派に共感。1848年12月10日の大統領選挙ではルイ・ナポレオンを支持します。
でも、ナポレオンはユゴーたち文化人の期待から徐々に外れ始め、次第に独裁化。いつしか国民の声をも聞かなくなってゆきます。ですから、数年後にはユゴーたちはナポレオンの強力な反対者となり、悲しくも体制側と闘わざるを得なくなるのです。
でも、多くの反対者があっても当時のナポレオンは聞く耳を持っていませんでしたし、何事に対しても強引でしたから、周囲の反対があったにも関わらず、1851年12月2日、クーデターを起こして独裁体制を樹立し、反対派への弾圧を始めます。
体制側に声高に反対していたユゴーですから、当然、弾圧対象となり、12月11日、余儀なくベルギーに亡命をするのですが、その後、英国領の島なども転々とし、1870年に帰国するまでの19年に及ぶ亡命生活を続けることになるのです・・・。
ユゴーは1851年12月12日、パリを離れ家族共々ブリュッセルにやって来ました。そして、グランパラスの一角に建つこの城館 Place des Barricades を住居とし、ここで1861年5月15日までの約9年間をごすのです。
その間、中断していた自伝とも言われる「レ・ミゼラブル」を完成させて1862年、ベルギーで出版します。もちろん、作品は大反響を巻き起こします。それはパリにも響き渡るほどの反響でしたが、19年間、パリに帰ることはなく、帰国のその日までブリュッセルを第二の故郷として生きたのです。
彼はパリから亡命したその日、初めてこのグランパラスを見たとき「世界で一番美しい広場」と言いました。また、ジャン・コクトーは「絢爛たる劇場」と名付けて、その美しさを賞賛しました。
1998年には世界遺産に指定された華麗なる広場は、ユゴーやコクトーだけではなく、時代を超えて、先に紹介しましたブリュッセル出身の映画スター、オードリー・ヘプバーンやジャン・クロード・バンダムも同じように賞賛し、故郷を離れても片時も忘れることがなかったのです。
ブリュッセルには「世界で一番美しい広場」と賞賛されたグラン・プラスの他、多くの見どころが詰まっていますが、見どころの他に19世紀という時代にヨーロッパの著名人の逃避行先という、自由と芸術の風が吹き渡る街であったことに注目したいのです。
アントワープ同様に中世というはるか昔から、芸術を育てる土壌があり、また、生まれた文化を育て、大きく羽ばたかせる自由という空気があったという事実に注目したいのです。大戦中であっても日本にもどこにもなかった“自由の風”がこの街にだけ在ったのです。そのことに注視したいのです。
そして、ブリュッセロワと呼ばれる街の住民たちの笑顔が、異端児である彼らを優しく包み込み、戦時中とて中傷や嫌がらせを恐れることもなく、他国の文化人すらも擁護して、彼らの文化や芸術をこの街で守り抜いた・・・。そのことを記憶にとどめたいのです。
19世紀には既に自由という名の元に生きていたベルギーという国、そして、ブリュッセルという街があったのです。素敵です・・・。そして、羨ましくもあります・・・。
(トラベルライター、作家 市川 昭子)