世界遺産・ナポレオンの青春の見える路



写真はパリの左岸に広がる広大なシャン・ド・マルス公園 Parc du Champ-de-Mars の一角に建つ旧陸軍士官学校 Ecole Militaire(エコール・ミリテール)です。

ここはパリ7区。公園の北西側にはエッフェル塔がそびえ、塔の南東側にこの旧陸軍士官学校(以後、陸軍士官学校と表記)が隣接する閑静な一角が広がっています。

公園はかつては誰も気がつかないほど地味で小さな緑地帯だったのですが、1855年を皮切りにして、1867年、1878年、1889年、1900年、1925年、1931年、1937年などパリ万国博覧会が数十年毎に繰り返されたことで、開催地の主要広場として選ばれた周辺は整備され、広い空間を有する爽やかなエリアとして注目されるようになります。

また、緑地帯を取り巻くようにして万国博の会場となるグラン・パレやプチ・パレなどいくつものパビリオンが林立したことで、20世紀初頭から観光エリアとしてのにぎわいを見せ始めます。

そして、1991年、この公園を含むパリのセーヌ川一帯は、貴重な歴史的建造物が軒を連ねることで、「パリのセーヌ河岸」という呼称で世界遺産に登録され、なおいっそうの人気ポイントとなり今に至ります。

もちろん、街路樹の奥に見える陸軍士官学校もその世界遺産の中に組み込まれ、観光客の注目を集めていますが、それは世界遺産ということだけではなく、学校は1760年、ルイ15世の公妾であるポンパドゥール夫人のサポートにより、開校されたということと、皇帝ナポレオンの母校ゆえです。

ナポレオン・ボナパルト Napoleon Bonaparte は1769年8月15日にコルシカ島のアジャクシオで生まれ、10歳の時、国費で貴族の子弟が学ぶブリエンヌ陸軍幼年学校に入学します。幼年学校では数学の成績抜群という記録を残し、頭脳明晰という誉れを手にして1784年、15歳でこの陸軍士官学校に入学しました。そして、砲兵科に入り大砲術を学びます。

でも、卒業試験の成績は58人中42位・・・。

といえばごく普通の、いいえ、むしろ出来の悪い学生だった。そう思うのが当たり前なのですが、実はそうではないのです。

それは通常の在籍期間が4年前後必要であるところを、ナポレオンは何と僅か11か月で必要な課程を修了したからでした。

彼は類稀なる優秀な頭脳を持っていたことで、1785年10月、入学して1年も満たない在籍期間で、必要科目のすべてを学び終わったのです。

そして、僅か16歳という若さで士官候補生を育成するこの陸軍士官学校という名門校を卒業したのです。

もちろん、学校開校以来の卒業最短記録を作りましたし、彼がいかに優秀だったかを、いいえ、秀才だったかを周囲に知らしめた事件となったのです。

彼は幼い頃から無口で小柄な少年でした。地味で目立たず、また、学校ではコルシカ訛りを馬鹿にされていじめにも遭いました。それに加えて、貧乏ゆえに裕福な貴族子弟とは折り合いが悪く、また、周辺の人々からは常に卑下されてもいました。もちろん、友達も出来ず、話し相手もなく、いつしか言葉のない寡黙な若者となっていました。

でも、ナポレオンはそんな子供の頃の境遇に納得していませんでした。理不尽と思っていましたし、負けん気の強い彼は悔しくて仕方なかったのです。

ですから、子供時代から貴族層も含めて体制に対しての反発は大きく、大人になったら誰よりも偉くなり、富裕層にリベンジしたいという思いが強く育ってゆきました。

そして、彼はその悔しさをバネにして、文学・美術なども含めて、得意な数学の勉学に力を入れ、必死の努力をして秀才と呼ばれるほどにまで成長するのです。

士官学校での驚くべき成績は、それゆえのものだったのですが、その結果はその後のナポレオンの人生を大きく左右するものとなります。

卒業してからは、諸事に対しての的確な処理とその迅速さが功を奏し、あっという間に軍の幹部となり、遂には若干35歳という若さで1804年12月2日に即位式をし“フランス人民の皇帝”という最高位に就きます。

その後、幼い頃に敵対心を持ったはずの貴族という称号を手に入れ、自ら貴族として歩んだ道も、また、未亡人でポール・バラス(注1)の愛人であった憧れの女性ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネを自分のものとし、結婚したことも、皇帝在位中に華麗なる戦績を残したのも、すべて、秀才であるナポレオンだったからこそなのです。

この陸軍士官学校を僅か11ヶ月で卒業した生徒は後にも先にもナポレオンしかいません。それは秀才ゆえなのですが、でも、努力なしでは得られなかった成績です。

彼は貧しい生活の中で見下される情けなさと無念さを味わいましたし、貧しいということだけで馬鹿にされ相手にされなかったことで、いかに自分のプライドが傷ついたのか、どんなに悔しかったか・・・。決して忘れませんでした。

そして、それがあったからこそ、馬鹿にした人々へのリベンジのために必死に独学したのです。その結果、皇帝という最高位のポストを手中にできたのです。

ナポレオンは1821年5月5日に島流しされたセント・ヘレナ島で51歳の生涯を終えますが、でも、彼は短い人生であったにもかかわらず、秀才だからこそ多くの英雄伝を残し、多くの伝説を創り、多数のファンを作って逝きました。

《ナポレオンは次回「戦いの回廊・ナポレオン執念の勝利」に続きます》

15歳の頃、コルシカ島から出て、パリに来たときのナポレオンは、後方に格調高い姿で建つ陸軍士官学校を背景にして延びるこの路をどんな思いで歩いたのでしょうか…。

憧れの学校でしたから、入学時から始まるであろう光り輝く世界をすぐそこに見ていたのかもしれません。

そして、数ヵ月後には、明るいパリの陽光を全身で受けながら、士官学校に続くこの路を意気揚々として歩くナポレオンの姿があったと思います。

この路は皇帝ナポレオンという英雄が歩いた路ではなく、まだ見ぬ夢を追っていた頃の若きナポレオンが前を向いて歩いた路であり、彼の青春の足跡が見え隠れする路として今なお、在るから・・・。

このように郷愁を漂わせ、ノスタルジーあふれる情景を見せているのかもしれません。素敵です・・・。

<注>
(1)ポール・バラス Paul Barras はフランス革命期の政治家、軍人で、1789年のフランス革命時には国王ルイ16世処刑に賛成票を投じた一人です。1800年イタリアとの戦いでナポレオン・ボナパルトと出会うのですが、それ以降、ナポレオンを自分の配下に置き、交流が始まります。その後、政権の有力者になったバラスは後の約5年間政府職の最高位に就き、巨万の富を得、リュクサンブール宮殿に居を構えて豪勢に暮らします。当時、愛人であったジョゼフィーヌは田舎育ちのナポレオンを馬鹿にしていたと伝えられますが、1796年、ナポレオンと結婚し、やがてナポレオンはイタリア遠征で成功し英雄となって、かつての上司バラスを失職させるのです。

(トラベルライター、作家 市川 昭子)