名画「ローマの休日」ゆかりの館 Palazzo Colonna in Roma


ローマの目抜き通りコルソ大通り沿いには、様々な時代の様々な遺跡や建造物が建ち並んでいますが、古代ローマ時代に建立されたマルクス・アウレリウスの円柱を目印にするコロンナ広場もそのひとつに数えられ、広場を前にして建つキージ宮(首相官邸)と写真の広場のすぐ南に建つコロンナ宮殿 Palazzo Colonna に注目が集まります。


ことにこの宮殿は知る人ぞ知るという、隠れた人気ポイントで知られるのですが、なぜかお判りですか。

実はこの館の2階の大広間は、映画「ローマの休日」のラストシーン、オードリー・ヘプバーン扮するアン王女の記者会見の間として使われたからです。会見場ではアン王女と結ばれない恋の相手グレゴリー・ペック扮する新聞記者ジョー・ブラッドレーとの悲しい別れが演じられましたね。それは悲しく、でも、素敵なシーンでしたが、会見場となった場所は、撮影はセットではなく、この城館の2階の大広間で行われたのです。それだけに説得力があり、アン王女が去っていった広間には、別れの悲しみだけが残り、涙を誘いました・・・。

最後のシーンにふさわしいアン王女とジョーとのプラトニック・ラブの最終章となったのですが、それは舞台を中世のバロック様式の天井画を含めて絢爛豪華に彩られた広間にしたことで、儚い恋をより印象付け、お互いの悲しみの深さを象徴した、演出だったからです。見事でしたね・・・。

このコロンナ宮殿は、中世のローマにはなくてはならない存在だった貴族コロンナ一族が1300年代から約100年に渡って要塞として建設したものですが、1417年11月11日、一族のオッドーネ・コロンナが教皇マルティヌス5世となったことで、宮殿は1420年から教皇が死去する1431年まで教皇の居所となります。

それゆえ、宮殿は豪奢な内装に塗り替えられますが、宮殿は教皇の亡き後もコロンナ一族のローマでの拠点として活躍し、1527年に起こった皇帝カール5世のドイツ人傭兵によるローマ劫略の際には、宮殿は火災を免れた数少ない建造物の一つだったことで、3000人を超すローマ市民の安全な避難所にもなったりもしました。

そして、1600年代にはフィリッポ1世やジロラモ枢機卿などの要望により、当時流行していたバロック様式に改修され、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニはじめ、カルロ・フォンターナなど、当時活躍していた錚々たる芸術家たちが参加し、宮殿の改築工事がなされたのです。

また、1700年代になるとそれまでにコロンナ一族がコレクションした15世紀から16世紀までの代表的なイタリアとヨーロッパの芸術家たちの最高傑作の芸術作品の数々を展示するために、コロンナ・ギャラリーの建築も行われました。

壮麗で優美なローマン・バロック様式で飾られたギャラリーは、現在一般公開されていますので、ローマを訪れましたら、是非、足を運んで頂きたいと思います。

というのもこのギャラリーには17世紀に活躍したボローニャ派の巨匠アンニバーレ・カラッチ(1560-1609)の最高傑作「豆を食べる男」がコレクションされているからです。

名画中の名画といっても過言ではなく、随所にアンニバーレならではの高度なテクニックを用いて描いた作品です。見応え十分。これ1点のために同館を訪れても悔いがないと思います。

その他、ペルージャ派であったピントゥリッキオはじめ、グイド・レーニ、ティントレット、グエルチーノ、ヴェロネーゼなどルネッサンス期に活躍したそうそうたる画家たちの作品が一堂に集まっているのです。

ここには中世から市民のために生き、市民にも愛された典型的なローマ貴族の世界が広がっています。いつの日か、宮殿を訪れ、アン王女とジョー記者との別れのシーンを回顧しながら、コロンナ家の貴族としての生活を垣間見て下さい。

宮殿に保存されている様々な施設や資料から、ローマの貴族がいかに優美で華麗な歴史を刻んでいたかを知ることができますし、なぜにイタリアという国が芸術の世界に寛容であったか知ることができると思いますから。

そして、中世の名画の世界で遊びながら、あなただけの素敵な“ローマの休日”の想い出を創ってほしいのです。

《余談》ミケランジェロが生涯で唯一大切に思った女性、コロンナ一族のヴィットリア・コロンナ夫人は、16世紀半ば、この宮殿に居住していました。そして、ここを拠点にして、二人は逢瀬を重ね、書簡を交わしたりして過ごしています。

その他、このコロンナ宮殿には、まだまだ多くの逸話が残されていますし、ローマにとってこのコロンナ一族がいかに重要で大切な存在だったか・・・。いずれ近い将来、ミケランジェロと夫人の交流も含めて解説をしたいと思っています。

(トラベルライター、作家 市川 昭子)