2013/06/10

オードリー・ヘプバーンの故郷ブリュッセル

世界中の誰もが愛する女優オードリー・ヘプバーン Audrey Hepburn(1929年5月4日〜1993年1月20日)の故郷がブリュッセルの街、ということは意外にも知られていません。

オードリーはイングランド人の父ジョゼフ・アンソニー・ヘプバーン・ラストンと爵位を持つオランダ人の母エッラ・ファン・ヘームストラの元、ベルギーの首都ブリュッセルに生まれました。

高貴な世界に住む母とイングランド人の父という、当時は誰もが羨む貴族社会にいたオードリーでしたが、彼女が5歳になった頃、ファシズムに共鳴した父親が家族の元を離れ、運動家として活動を始めたことで、その数年後、両親の離婚という辛い現実を迎えなければいけませんでした。それだけではありません。それ以降、ファシズムに染まった父親と会うことはできず、5歳という幼さで悲しい別れを経験するのです。

そして、オードリーが10歳の時、父親不在という理由で生地ブリュッセルを追われるように出なければならなくなった母子は、オランダに住む祖父の家に身を寄せます。そして、悲しみこそ大きくありましたが、気丈な祖父に見守られながら、母と共に新たな生活を始めるのでした。

彼女は、かつては貴族だった叔父の勧めもあってまずはバレエを習い始めます。好きなこともあったのですが、天性のものがあったのでしょう、真面目に練習を重ねたことで、5年後の15歳のときには有能なバレリーナとしての道が約束されるほどの上達ぶりを見せるのです。

でも、多感の頃でしたし戦時中でした。彼女はバレエをドイツのオランダ占領に対する抵抗運動の資金集めのための道具として使い、踊ることで収入を得ます。そして、それを反ドイツのレジスタンス運動資金として提供をし、父親と同じに自らも過酷な運動に直接従事するようになってゆきます。

それには理由がありました。

ドイツに対して抵抗する叔父と母親の従兄弟が目の前で銃殺され、彼女の異父兄弟もド イツの強制収容所に入れられたことなどを経験したからでした。悲しい出来事を忘れることは不可能に近く、第二次大戦の末期はオードリーにとって生涯払拭できない辛く悲しい青春時代の幕開となったのです。

そして、戦争が激しさを増した16歳の時、ボランティアで看護婦をしていた彼女は、マーケット・ガーデン作戦で大激戦地となったアーネムの病院に回され、そこで一人の英国陸軍兵を介護します。

重症の彼に毎日付き添っての介護でした。でも、その時はまさかその兵士との出会いが自分の将来に大きく関わってくるとは思いもしませんでしたし、後に自分が“オードリ ー・ヘプバーン”という世界中の人々を魅了する女優になるきっかけになるとは予感すらなかったのです。

そうなのです。その負傷者は戦後、映画の仕事に就き、20年後、彼は映画監督になって彼女の作品『暗くなるまで待って』を演出したテレンス・ヤングだったのです。

第二次世界大戦終結後、オードリー母娘はわずかな荷物と少しのお金でロンドンに逃げ、小さな部屋を借りて母親の必死の努力とオードリーのアルバイトで何とか生き延びたある日、映画出演という好機に恵まれます。そこからは皆さまもご存知ですね。次から次へとヒット作品を創り、世界中の人々を魅了したのです。

アンネ・フランクと同い年で、英語、フランス語、オランダ語、スペイン語、イタリア語が抜群に堪能であったという勤勉家であり、読書が大好きだったというオードリー・ヘプバーン。とてもシックで気品すら漂う素敵な一人の女性でした・・・。


写真は1840年に建設された古本屋街ギャルリー・ボルティエの本屋さんです。アール・ヌーヴォー様式のシックな内装が素晴らしくブリュッセル独自の気品漂うクラシカルな時間の流れがここに在ります。

彼女はこの街を出た後、二度とこの地で生活をすることはなかったけれど、でも、去るその日まで、シックに装ったこの本屋を覗いていたのではないのでしょうか・・・。

そして、本好きの彼女です。今も天国からもきっとこの店先を毎日訪れているかもしれませんね。この本屋さん、素敵ですから・・・。

(トラベルライター、作家 市川 昭子)
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